Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

今週のお題「体力」

 今週のお題「体力」

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 30代の後半でジョギングを始めて、(ハーフ)マラソン大会にも出るようになった後、常々「ハーフマラソンくらいならいつでも走れるような走力を維持していたいものだ」と思っていた。100kmマラソンを何度も完走した後は「70代後半で完走すれば、大会史上最高齢完走者になれるかも!?」なんて夢想していた。それが、今年父が死んで、「体力」というものに対して異なる感覚を持つようになった。

 父も母もそうなのだが、80代を迎えて、自宅の床に尻もちをついたら立ち上がれなくなってしまった。自分の脚で歩くことはできるのだ。椅子から立ち上がることもできる。だから介助なしで日常生活をほぼ送れるのだが、尻もちをついたら最後、誰かの助けがないと立ち上がれない。玄関での靴の脱ぎ履きは立ったまま行わなければならないし、ソファの座面が低いともうダメだ。最後は、父はソファやベッドから立ち上がることができなくなっていた。

 妹が介護技術系の本を買ってくれたので見てみたら、尻もちをついてしまった場合、ゴロンと体の向きを回転させて、四つん這いになるのがポイントのようだ。四つん這いにさえなれれば、あとは椅子等に掴まって何とか立ち上がることができるのだそう。となると問題は、仰向け状態からうつ伏せ状態に自分の身体を回転させられるかどうか。そういう「体力」「筋力」「運動能力」「身体能力」が安全な日常生活を送るためには必要なのだ。何もマラソン大会で完走できなくたっていいのだ。生きていくための身体能力というものはまたちょっと違うものなのかもしれない。

 また、これは身体トレーニングで維持できるものでもないのかもしれないが…、父の死因は「誤嚥性肺炎」。今年の春から容易に誤嚥するようになってしまい、最後は病院で薬を飲む際にすら誤嚥するようになってしまっていた。誤嚥は必ずしも筋力低下だけが原因ではないので(一種の「反射」なので、脳神経系の衰えとも関連しているのだそうだ)、運動していれば嚥下機能も保たれる、というものではないのだろうが…、嚥下機能の維持は本当に「死活問題」。こういう生きるために必要な身体能力が衰えないようにしなければ、という視点は今年初めて持った。

 衰えていく親の姿を見るのは哀しいものだが、そこから学ばせて貰ったことを有り難くも感じている。