Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

日本語の難しさ

 つい今さっき、日本語教師(「国語教師」ではない)の仕事について書かれた本を読んでいて、ほとんどの日本語ネイティブスピーカーが抱いている「日本語は難解な言語である」という信念(思い込み?)は、言語としての日本語自体の難しさからではなく、外国語教育について何も知らない素人が外国語として日本語を教えようとしたときに感じる絶望的な難しさに由来するのではないかと思いついた。

 つまり、「教えることの難しさ」を「言語そのものの難しさ」と混同してしまっているのではないか、ということだ。「(何かを)できる」ということと「(それを)教えることができる」ということが全く別物だ、ということは案外理解されていないように思うし、多くの場合日本語ネイティブスピーカーが日本語の難しさを口にするのは、自身の有している暗黙知をうまく言語化できないときの言い訳としてではないかと思うのだ。