Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

トイレットペーパーを使い尽くして、お金を貯める方法について考える。

 自宅のトイレットペーパーが完全になくなってしまったのに下痢。大ピンチである。どうして残りあと1個になった時点で買いに行かなかったのだろうと悔やむ。

 実は僕はこういうときの非常に良い対処法を知っている。マンションの隣の部屋の住人にトイレットペーバーを1つ貰いに行くのである。お隣に誰が住んでいるのか僕は知らない。しかし、この方法は、トイレットペーパーを貰いに行く相手が、あまり知らない人、緊張感をもって接せざるを得ない人であればあるほど有効なのだ。この方法がどのような意味で「有効」なのか説明しよう。(今回はこの方法を使わずに何とかピンチを切り抜けました。)

 僕は(正確に言うと違うのだが気分的にはいまだに)大学院生をやっている。世の中にはいろいろな大学院生がいると思うが、僕の所属している研究室では、大学院生はその生活の大部分を研究室内で過す。ひどい人になると、研究室で生活しているような人もいる。

 研究室のある建物は、夜の10時から朝の7時までの間は原則として出入りができない(出ることはできるが入ることができない)ことになっている。脳は大量のエネルギーを消費する燃費の悪い器官であり、頭を使うと意外と腹が減る。研究のために夜遅くまで研究室に居残っていると当然夜食が必要になってくるわけだが、建物から出たら最後、戻ってこれないのだ。カップラーメン等に頼ることになる。

 トイレットペーパーすら切らしてしまうのだから、当然カップラーメンのストックなんてすぐに切らしてしまう。食い物を探して深夜の研究室内を物色することになる。

 さて、ここで他の院生が私物を置いている棚にカップラーメンを発見したとしよう。腹が減ってはイクサはできないから所有者に断らずにこれを食べる。で、次の日に同じカップラーメンを買ってきて、所有者に一言詫びる。「ごめん実は昨日の夜ここにあったラーメンを勝手に食べたんだ。」多くの人は、腹が減ったらまた食べていいよと言ってくれる。その結果、僕は自分の棚にカップラーメンをストックしておく必要がなくなる。また腹が減ったらその人のラーメンを食べて、後日補充しておけば良いからである。

 僕もその相手も、カップラーメンはその人の所有物だと思っている。僕はその人のカップラーメンを食べたから、後日食べた分を返すのである。しかしこれ、実際に行っているのは、僕の所有するカップラーメンをその人の棚に置かせてもらっている、というのとかわらないのだ。(ストックしているものの、ラーメンの所有者自身はそのラーメンを実際に食べることはほとんどない、という場合を考えてみよう。)

 ポイントは、僕自身もそのカップラーメンは自分の所有物ではないと思っている、というところである。自分のものではないと思っているから、後日ちゃんと返す。他人のカップラーメンを勝手に食べて知らん振りをしているのは、(たとえ、相手がカップラーメンが1個減ったことに気づいていないとしても、あるいはそれを食べたのが僕だということを知らないとしても)後味が悪い。だから次の日1個買ってくる。逆に言うと、自分のカップラーメンのストックがすぐに尽きてしまうのは、自分のラーメンをいくら食べたって後味が悪い想いをすることがないからだ。自分のラーメンを自分で食べて、食べた分を自分に返さなくても、罪悪感を感じないのである。だから自分のカップラーメンはすぐになくなってしまう。

 他人のラーメンを食べて食べた分を返さないと罪悪感を感じる。だからすぐに買ってきて返す。その結果、他人の棚に他人の所有物として、いつでも食べることのできるカップラーメン(そういう意味で「自分のラーメン」)がストックされ続ける。しかし、これは、さっきも書いたように、自分のラーメンを他人の棚に置いてもらっているだけのことなのだ。しかし、そのことに自分自身気づかずに、これは他人のラーメンだと僕が思い込んでいることによって、自分のラーメンのストックが維持されるのである。この方法は、食べた分を返さないと罪悪感を感じてしまうような相手にしか使えない。返さなくても平気でいられるような相手には使えない。その極端な例が自分自身だ。

 同じことは貯金にも言えるはずである。自分のお金を使ったからといって罪悪感は生じない。しかし、他人からお金を借りた場合返さないと罪悪感が生じたり、負い目を感じるから借りた分を返す。ということは、自分のお金を他人のお金だと思い込んでしまえば貯金を使い込まずに済むということなのだ。10万円もっていたとして、これを自分のお金だと思っていれば、僕はいつの間にかこれを使い果たしてしまう。しかし、これが他人の10万円なのだと思えば使った分を返すから、10万円は維持される。場合によっては利子をつけて返すから貯金は増えていく。

 このカラクリには以前から気づいていて面白いなとは思っていたのだが、同時に、ここで話が終わってしまうところが僕の発想力の限界でもある。こんな話は誰でも思いつく話だ。本当に面白い話はここから始まるはずだ。

 ここで書いた心理プロセスは、相手が人間でなくたって構わない。自分のお金は神様から借りたものだと思い込んでしまって、神様から借りたお金に利子をつけて返していれば、結果として貯金は増えていく。本当に面白いのは、僕が自分のお金をある人のものだと思い込んで行動することによって(そして、その人もそのお金は自分のものだと思って行動することによって)、その人自身の行動がかわってくるときである。僕が、自分のお金は本当は神様のものだと思い込んだとしても、神様の行動がかわるわけではない(と思う)。しかし、僕のお金はある人のお金なのだと2人が思い込めば、その人の僕に対する行動はかわるし、そのことが2人の関係をかえていく。つまり、この話にある種の双方向性が加わったときに、この話は本当に面白い話になる。だけど、僕は数年間この話に双方向性を加えることができずにいて、ここが自分の(少なくとも、今の)限界だと思うのだ。