Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

赤の他人だからこその「頑張れ」

 僕は「頑張れ」と言うのも「頑張れ」と言われるのもあまり好きではない。大抵の場合「頑張れ」はとても無責任な言葉だからだ。「頑張れ」と言ってしまったことの責任は大抵問われない。「頑張れ」のそんな無責任さが嫌いだ。だいたい他人事だから「頑張れ」なんて平気で言えるのだ。自分が「頑張れ」と言ってしまったことによって相手が限界以上に頑張ってしまったらどうする。僕には「頑張る気があるなら頑張ってください」としか言えない。

 しかし、何時間も沿道に立ち、見知らぬアマチュアラソンランナーに「頑張れ〜」と声をかけ続ける人々を見ると、無責任に発せられる「頑張れ」ほど純粋な善意もない、とも思うのだ。他人事だからそんなこと平気で言える。だけども、頑張っている人を見たら、その人が例え赤の他人の自分とは利害関係のない人であっても、つい「頑張れ」と声をかけてしまいたくなってしまうという心理傾向そのものは人間の本性として備わっているものではないかと思うし、そうして発せられた「頑張れ」は他人事ゆえに裏のない心から発せられたものだと思うのだ。励ましたことを後で感謝されたいわけでもないし、誰かを頑張らせて利益を得ようというわけでもない。こうして考えると、無責任で無邪気な「頑張れ」こそこの世で最も純粋な善意そのものだとも思う。「頑張れ」と言いたい気持ちを無理に抑えこむのは不自然だ。

 というわけで、僕とは利害関係のない赤の他人さんへ、他人事として、遠い空の下から、「頑張れ」。