Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

共有されない想い出

 年末から年度末にかけて、大学院生ってのはさびしいものだなといつも思う。これは教育関係者は皆そうなのかもしれない。

 毎年繰り広げられる大騒動。クリスマスに卒論提出、新年明けて卒論要旨提出、2月頭に口述試験、卒業旅行だ! 卒業式だ! たった2年ほどで随分逞しくなった4年生諸君は、社会へと飛び立っていく。 取り残されるのはいつもこちら。

 1年ほど前にふと思いついたことなのだけど、想い出というものは他者と共有されてはじめて意味を持つのではないか。心理学の教科書を見ると、想い出というのは脳ミソに蓄えられた記憶の一種であると書かれている。心理学というのは基本的に人間一匹捕まえてきていろいろ調べれば人間について理解できるという立場に立っている学問だから(そしてその点が心理学の最大の誤りだと思うが)、想い出という種類の記憶の性質や機能について考えるときも、それは要するに個人的に経験した情報が脳ミソの中に蓄積されたものと考えるし、そういう情報があるからこそ、経験から学んだり、意欲が持続したり、それまで持っていなかった概念と結びついて視野が広くなったり、とか何とかまぁいろいろ可能になるのだ、という方向性で話は進んでいくと思う。

 それは確かにそうなのだろうと思う。だけど、想い出を共有している他者がいなくなってしまって、想い出が本当に単なる「脳ミソに蓄えられた経験情報」になってしまったときに感じる、あの猛烈なさびしさはいったい何だ?と考えると、想い出情報そのものが大切なのではなく、想い出を共有するというかたちでつながっている他者の存在の方が自分にとってよほど大事なものなのではないかと思う。例えば、2人だけの秘密。相棒はもう死んでしまって、この世に誰一人としてこの秘密を共有している者はいない。こんなさびしいことはないではないか。

 今日の言葉:
 『想い出の本質は、脳ミソに蓄えられた情報そのものにではなく、それを共有するという形でつながっている他者の存在にある。』