Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

小池栄子似の

 学会会場には「会場係」みたいな人がいる。会場係は、配布資料を配ったり、発表が始まったら照明を暗くしたり、室温調節をしたり、発表開始からの経過時間を計ったりする(これは10分経過などのタイミングで合図するため)。大抵は主催校の学生をアルバイトとして雇う。

 今回見かけた会場係は皆女性だった(どうも主催校はもともと女子大(今でもそうなのかもしれない)だったらしく、女性の比率が高いのかもしれない)。ある会場で見かけた女性は小池栄子似の美人でスタイルも良く、スーツ姿はセクシーですらあり、正直見とれてしまった。

 もちろん、会場係が美人である必要はないし、女性である必要もない。そもそも(会場係の役目を果たせるのであれば)人間である必要すらない。ところが、こういう仕事に関して、いわゆる「きれいどころ」の(アルバイトとしての)確保と、受付や各会場へのその「適切な」配置について真剣に考える人(あるいは、考えるべきだと考えている人・考えざるを得ないと考えている人)というのは、案外若い人にもいる。彼らは確保した「きれいどころ」をどこに配置するかの決定に真剣に時間を費やすのである。

 こういう人が性差別主義者だとは限らない。人間は、外見の良いものに対して外見以外の側面についても良いと(根拠なく)判断する傾向をもっている。だから、企業の受付係などに外見的に評価される人を配置することには、実際に意味がある(その企業にとってメリットをもたらす)のだろう。仮に、受付係が美人女性であることによってその企業の収支が良くなるのなら、経営者は美人女性を受付係に割り当てざるを得ない。つまり、古い性役割規範から女性に受付嬢をやらせるのではなく、経営上の判断としてそうせざるを得ないのである。

 しかし、会場係に美人が必要かなぁ。美人につい見とれてしまう僕みたいな人間がいる限り、学会主催校は美人女性を各会場に配置せざるを得ないのだろうか。会場係が美人だったからといって、学会主催校としてのその大学への評価が高まるわけではないと思うのだが。