Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

近似

 理工系の大学生向けのテキストとして書かれた本を何冊か眺めていて気づいたことがある。

 ある現象に対して数学的表現を与える。その数式が数学的に重要な数式に似ていたり、厄介な部分を含んでいたり、0ではないが0みたいな部分が含まれていたりすると、「この式は、次の式で近似できる」といって、式をすりかえてしまうのだ。こういう「すりかえ」「みなし」は思っていたよりもずっと頻繁に行われている。

 そもそも「近似」という概念は、文系育ちの人間(というか、数学をツールとして使うことのない人間)にとって非常になじみの薄いものではないかと思う。そういう人が数学に対してもっている印象は、論理的一貫性の重視・正確さ最優先・一点の曇りもない、というようなものだと思う。そして、だからこそ、数学なんて生活していく上で何の役にも立たない、という印象をもつのだと思う。

 数学の世界は現実の世界とは異なる。現実の世界を現実的と呼ぶとすれば、数学の世界は非現実的、虚構の世界ということになるのだと思う。だけれども、数学の世界は現実の世界と完全に無縁の世界でもないから、数学を応用して現実の世界での問題解決に役立たせることはできる。この「応用」に、数学の世界と現実の世界との(ある意味「無理やり」の)対応付けが必要であり、その対応付けが近似するという行為なのだと思う。

 数学を応用するつもりがないと、近似という発想は出てこない。だから、数学の応用とは無縁の生活を送っていると、理工系の本を読んで、えっそんなインチキしていいの?と大いに驚くわけだ。現実の世界では、困らない範囲で(つまり、役に立つ範囲で)行われるインチキは許されるわけだ。あまりに数学の世界から離れてしまうと、数学の世界そのものと数学的法則を応用しようとしている現実の世界の区別もつかなくなってしまうから、数学の世界の中でインチキを行っているように見えてビックリする。そういうことがわかってきた。