Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

『水戸黄門』の面白さ

 『水戸黄門』の面白さについて考えてみた。何故この番組は人気なのだろうか?

 よく言われるのは、「勧善懲悪」「パターン化された筋立て」「ハッピーエンド」といったところだろう。要するに、悪いやつが最後には成敗されることが初めからわかっていて安心して見ていられる、ということだ。

 しかし、何と言っても一番人気があるのは、(誰もがそうだろうと思うが)印籠をかざした途端に悪役達がひれ伏す場面だろう。何故あの場面が人気なのだろうか? スカーッとするからである。では何故スカーッとするのだろうか? 悪役達が裁かれるからだろうか? おそらくそれは違う。黄門様の代わりにスティーブン・セガールが登場して、悪役達をやっつけてしまうのではいけないのだ。一見無力なジジィが携帯用薬箱のマークを見せただけで、それまで威張っていたやつが急にペコペコしだすというところが面白いのだ。

 そもそも印籠の象徴的な力は誰にでも通用するわけではない。「猫に小判」と同じで野犬や子供には通用しないし、水戸黄門が行っているのは要するに地方都市行政に対する中央政府による抜き打ち監査なわけだから、その力は地方行政官にしか及ばない。黄門様が解決できる問題は、代官だったり奉行だったり家老の息子等による権力濫用という、地方行政における腐敗問題だけなのだ。地方行政官がその権力を利用して悪事をはたらく。犠牲者はどう頑張っても太刀打ちできない。ところが権力者達もさらに上位の権力者、先の副将軍の前には無力である。ここが『水戸黄門』の面白さの秘密だ。いつも威張っている部長が社長の前ではペコペコしたり、絶対権力者のように思われた支社長が本社の役員の前では借りてきた猫のようであったり、その姿を見て溜飲を下げるというのが『水戸黄門』の楽しみなのである。

 このように『水戸黄門』の面白さは、権力を振りかざしていた者がその上位の権力者には頭が上がらない、というところにある。『水戸黄門』の本質的なつまらなさは、黄門様自身が悪事をはたらくことがないこと、あるいは、黄門様は完全に善なる存在なのだとしても、彼よりもさらに上位の権力者(将軍)が悪事をはたらいている、というエピソードが描かれない点にある。(悪役達は、印籠に描かれた葵の紋、つまり、江戸幕府に対してひれ伏しているわけで、黄門様その人自身に対してひれ伏しているわけではない。黄門様に頭があがらないのはそのバックに江戸幕府がついているからであって、黄門様その人が力をもっているわけではない。逆に言うと、黄門様は江戸幕府の不正を正すことはできない。ここで腐敗した幕府を倒すことのできるのはスティーブン・セガールだけだ。)

 ところで、日本企業の特徴と言われた終身雇用制や年功序列制は随分崩れたそうだ。企業内・企業間の人間関係も大きくかわってきているのではないかと思う。『水戸黄門』の面白さが、固定化した権力関係の中で「自分が逆らうことのできない人にとっても、逆らうことのできない人がいる」点にあるのだとしたら、固定化した権力関係に身においた経験の少ない人は『水戸黄門』を見てスカーッとすることも少ないかもしれない。

今日の予言:
 日本型企業経営の崩壊とともに『水戸黄門』人気も衰える。