Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

哲学と工学

 小学生のときに(1970年代後半)社会科の授業で札幌の大きな郵便局に行った。

 そこで驚いたのは、手で書かれた数字(郵便番号)を機械で認識していたことである。(当時どの程度日常的に目にしていたかおぼえていないが)マークシートのようなものの機械による認識はそれほど難しいものではないだろうと小学生の僕も考えていた。あれは、要するに1か0の世界である。あるかないかだけなら機械でも容易に認識できる。

 ところが、手書き記号の認識となると話は別である。記号の認識というのは、あるかないかの認識ではなく、パターンの認識、刺激のパターンがあらかじめ定められた複数のパターンに当てはまるか否かの判断を含んでいる。ところが、例えば「0」という数字を認識するとしても、だいたい全く同一の0なんてこの世に存在しないわけだし、ある程度の誤差を認めるとしても、人によって0の形は結構異なる。郵便番号を書き入れるマス目のどの位置にどのくらいの太さのペンでどのくらいの大きさで0が書かれているかは毎回異なるのだ。機械が手書きの数字を認識することができるというのは僕にとって大きな衝撃で、当然(小学生なりに)自分でもそれを実現したくなるわけだがうまい方法を思いつかなかった。そこには大きな哲学的な問題が含まれているように感じた。僕の哲学への憧れのルーツは実はこういうところにもある。

 その後1990年代に入り、単純な数字や記号だけでなく文字の機械認識まで可能になってくると大いに焦った。「哲学者の議論の多くは実用的なものではないかもしれないが、しかし哲学抜きで解けない問題はたくさんある。文字認識はその1つだ。」と思っていたのに、工学者は哲学抜きの力技で文字の機械認識技術を実用化しつつあったからだ。

 工学の良いところは、実現したい目標に対して解くべき問題の優先順位をつけるところではないか。そして、それが本質的な問題であれくだらない問題であれ、優先順位の高い問題の解決にエネルギーを集中するというのが、工学というものではないか。それに対して、哲学の良いところは、問題そのものを味わいながら、より本質的な問題を明らかにしていこうというところにある。そして、本質的な問題に対して本質的な答えを与えよう、というのが哲学だ。しかし、これは、あるアイデアのスピーディーな実用化という作業においては障害になり得る。問題を味わい尽くすまでは次のステップに進もうとしないし、本質的でない答えを答えとして認めないからだ。一見哲学的な問題に対して、工学者が先に問題を解いてしまったかのように見えるのはそのためだ。