Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

変な信号機から社会について考える。

 最近、札幌の中心部には変な信号機が増えてきた。

 ここで言う変じゃない信号機ってのは、十字路の交差点に設置されていて、(街をX軸とY軸によって構成されている2次元空間だと考えると※)X軸方向とY軸方向が交互に青になったり赤になったりする信号機のことだ。

 最近増えてきた変な信号機というのは、変じゃない信号機と同様に十字路に設置されているのだけど、車のみX軸方向青(車Y軸方向と歩行者は赤)、車のみY軸方向青(車X軸方向と歩行者は赤)、歩行者はX軸方向もY軸方向も青(車はX軸方向もY軸方向も赤)、というのが順番に回ってくるタイプの信号機だ。

 凄く面白いのだけど、X軸方向に進む車のドライバー、Y軸方向に進む車のドライバー、歩行者、という3者の立場になって考えてみると、誰にとっても3回に1回の割合で青になる。そういう意味で平等だ。ところがだ、3回に2回は赤、というのが何と言うか不平等感を感じさせるのだ。自分ばっかり待たされているような気になるのだ。「2回に1回赤」以上に赤が多いわけだから「負け越してる」気がするのである。つまり、「自分」と「それ以外」という観点で考えると、自分が青は1、自分以外が青は2、だからだ。

 例えば、将棋のような1対1で対戦するゲームは、交互に自分の番が回ってくる。そういう意味で対等の立場だ。ここで3人将棋というのを考えてみる。皆3回に1回自分の番が回ってくる。そういう意味で対等の立場だ。ところがだ、3回に1回しか自分の番が回ってこないのは何か不利な立場に立たされているような気にならないか? あるいは、盤上の駒を「自分の駒」と「自分以外の駒」という観点から観ると、自分の駒が1、自分以外の駒が2、である。やっべえ不利じゃんと思わない? 皆同じ立場に立たされているのに。

 対等な2者関係では、自分1、自分以外1だから、五分五分の平等感というものがある。五分と五分で勝負、というのは、頑張れば過半数を取れるかもしれない、だから1対1で決着をつけたい、ということだ。

 ところが、対等な3者関係では、かなり頑張らないと過半数は取れない。シェアを33%から50%まで増やすのはかなりキツイ。それよりも誰かと連合を組むか、他の2人に連合を組ませないかの方が重要だ。そのこと自体は他の2人にだって当てはまるんだから3人は対等なのだけど、2者関係の平等感が自分の頑張り1つで過半数を取れるかもしれないという平等感なのに対して、3者関係の平等感というのは、誰も自分1人の頑張りでは過半数を取れないという意味での平等感なのだ。

 4人以上の関係は3者関係と同様。そういう意味で社会の最小単位は2者関係(ペア)ではなく、3者関係(トリオ)なのだ。2者関係というのは、ある意味特別な関係なのである。


※ 札幌の街は碁盤目状に構成されている。京都をモデルにしたそうだ。