Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

グラフィカルに考えるとは

 僕はよく「自分はグラフィカルにものを考えるタイプだ」と言う。しかし「グラフィカルに考える」と言われても意味がわからないのではないかと思う。今日、まさにグラフィカルに考えている瞬間にそれを自覚したので、例として書いてみようと思う。

 そのとき考えていたのはこんなことだ。「13時40分の45分後は何時何分だろうか?」

 僕は決してここで計算はしない。例えば、「40に45を足して85。そこから60を引いて25。だから14時25分。」あるいは、「45分後というのは、1時間進んで15分戻ったところだから、40から15を引いて25。だから14時25分。」「14時になるまで20分。残り25分あるから14時25分。」いろんな計算方法はあると思うが、とにかくこういう計算はしない(こうやって書いてみると、こういう計算をした方が早くて確実なのではないかと思ってきた)。

 では、どうやって考えるかというと、まず時計の文字盤を思い浮かべる。デジタル表示のやつじゃなくて、長針短針式のやつである。そして、9時の状態を思い浮かべる。で、長針と短針の角度を一定にしたまま、2本の針を逆時計回りに(頭の中で)回転させる。長針を40分、つまり、8の数字のところまで回転させ、短針が指している数字を(頭の中で)「見る」。短針は5を指しているから、40分の45分後は25分だと「わかる」。つまり計算しなくても、(想像上の)針を回転させて、針の指している位置を「見ればわかる」。(ただしこの方法では、それが何時の25分なのかはわからない。)僕がグラフィカルに考えるタイプだと自分のことを表現するのは、最も単純な例を挙げればこういう意味においてだ。

 問題は、こういうメンタルローテーションが最近急速にできなくなってきたらしいことなのだ。僕は、生活上の多くの思考においてこういうふうにグラフィカルに考えて生きてきたので、この操作ができなくなると本当に困るのである(他の人がもっているような「計算する」ノウハウが欠けている)。特に抽象的な思考においてグラフィカルに考える癖が顕著なので、抽象的な思考で勝負しようと考えている限り、これは死活問題なのだ。