Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

財の生産と財の流通

 両親が2人とも芸術系の人間で、彼らは「価値をうみだす」ということをとても重視している。ここで言う価値とは、芸術作品の創造に限らず、農林水産業といった第一次産業によってうみだされる財や工業製品といった第二次産業によってうみだされる財も含む。2人は、何かを創り(造り・作り)出したり、採って(捕って・獲って)くることを高く評価している。

 2人は、商業をあまり評価しない。2人にとって商業とは、自ら財をうみだすことなく、他人のうみだした財を単に流通させることによって利益を得る産業、ということになるからだ。極端な例が両替屋で、通貨を交換することで手数料を得るという商売は、人の弱みにつけこんだ卑しい職業だということになってしまう。芸術という分野で言えば、2人は画商を嫌う。僕自身もこの価値観に強く影響されていて、第三次産業全般を卑下する傾向をもっている。

 しかし、人間社会の特徴が高度に発達した分業にあると考えると、様々な財に対する需要と供給のマッチングこそ達成しなければならない最重要課題だと考えられる。財の流通そのものが、人間社会を成り立たせる価値あるサービスであるわけだ。分業が発達してしまった以上、財の生産と財の流通は車輪の両輪のような関係で、両者は依存し合っている。一方が欠ければ、他方も立ち行かない。両替屋が存在しなければやはり不便だ。不便なところには不便を解消するサービスに対する需要がうまれる。重要を満たすサービスの供給が価値の創出でないとしたらそれはいったい何だろうか。

 ただ、おそらく芸術家というのは、基本的に他者とではなく自分自身と向き合うタイプの人間で、自分の中に人間としての完全性、自給自足性を求める傾向があるのではないか。そういうタイプの人間は、自分自身に対しても他人に対しても、自ら価値を創出することのできる人間であるかどうかという観点から評価を下すのではないか。反対に、自分自身よりも他者と向き合うタイプの人間は、対人関係を調整し社会をうまく機能させることに価値を見出す傾向があるのではないか。

 もちろん、どちらも重視する人間もいるし、どちらも重視しない人間もいるわけだが。