Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

個人の価値

 どうしてそうなってしまったのかよくわからないが、僕の中には「集団のために個人が犠牲になるなんてとんでもない」という感覚がある。そういうことは絶対に許されてはならない、という感覚がある(少なくとも小学校低学年の頃には明確に持っていたと思う)。

 逆に、「一部の個人のために集団が犠牲になるのは…、まぁいいじゃん」という感覚がある。そっちは何故か許容範囲に入ることになっている。

 どうしてそう思うのかよくわからないが、大事なのは集団ではなく個人であるという感覚が、言わばア・プリオリにある。個人の価値というものが絶対だという感覚が僕にはあるし、その考えに沿ったヒューマニストでもある。

 何でそう思うのかよくわからない。親が芸術系の人間だからかなぁー。(芸術系の人間は、個々人が何かを生み出すことができると不遜にも考えるし、何かを生み出す存在としての個人というものを尊重する傾向がある、と思う。)