Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

機会コスト

 「機会コスト」という概念、頭ではわかるのだが、いつまでたっても身につかない。

 「今のやり方では手に入らないが、他のやり方をしていれば手に入れることのできた利益」のことを機会コストという。「他のやり方をしていれば手に入れていたのに、そのやり方をしなかったために手に入れられなかった利益」という意味で、機会コストは損失である。

 しかし、僕自身は機会コストを損失だとどうしても感じることができないため、この概念が身につかない。と言うのも、どうも僕は、何かを得ることによって生じる効用の増大量(の絶対値)とそれを失うことによって生じる効用の減少量(の絶対値)を比較すると、後者の方が前者よりもはるかに大きいというタイプの人間らしいのだ。10万円を得る喜びよりも10万円を失う不愉快さの方がずっと大きいのだ。

 そういう人間にとっては、「何かをすることによって10万円を失う」という事態を避けることが重要なのであって、「他のやり方をしていれば10万円を手に入れることができていた」ことは少しも苦痛ではない。

 というわけで、僕は何もしようとしない。何かを行った結果として何かを失ってしまうのがとても嫌だからだ。そして逆に、何もしないことによって、得られていたはずのものを得られなかったとしても、何も嫌ではないのだ。

 要するに僕にとって機会コストを払うことは苦痛ではない。だから、僕には機会コストを損失として実感することができず、この概念が身につかないのである。