Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

異文化に接する衝撃

 アイヌとして初めて国会議員になった萱野茂さんが亡くなったそうだ。僕が彼を最初に見かけたのは1992〜1993年頃で、彼はまだ国会議員ではなかった。

 大学の社会科学系の授業で、北海道平取町沙流川ダム問題を特集したNHKのテレビ番組を見たのだ。ダム建設により流域の一部は水没してしまう。そこにはアイヌの伝統儀式を行う場所も含まれていた。こうしてダム建設計画に地元住民が反対したのが沙流川ダム問題だ。

 番組では、建築予定地付近で、反対者を代表する人物がアイヌの伝統的な衣装を身にまといアイヌ語で声明文を読み上げ、その後、行政側の担当者の目をじっと見詰めながらアイヌ語で話し掛けている姿がうつされていた。そのときの行政(北海道開発局?)側の2人の担当者の表情が忘れられない。困惑とはこういう状態を言うのだろうなぁと思うほどの困惑顔だったからである。何しろ、目を覗き込まれながら意味を解することのできない言語で直接話し掛けられているのだ。しかも相手は抗議口調ではなく、堂々とはしているものの非常に紳士的な態度なのだ(謙虚なときのスティーブン・セガールみたいな感じ)。でも、何を言っているのかわからないのである。

 最初は、相手に理解されない言語で話し掛けることは対話を拒否しているようなものなのだから無意味ではないか、と思った。ある種の政治的なパフォーマンスに過ぎないのではないかとも思った(ただし、政治的なパフォーマンスが大事な場合もある)。だけれども、僕はあのとき初めて生のアイヌ語というものを聞いた。実は自分の住むすぐ近くに(平取町は札幌から車で2時間くらいで行ける)、自分の知らない言語で話す人がいることを初めて知ったのである。行政の担当者の困惑顔が強く印象に残っているのは、僕自身困惑していたからではないかと今は思う。

 観光地としてのアイヌのお土産屋さんは北海道の各地にあるし、アイヌ文化を伝えることを目的とした施設もいくつかある(平取町にも立派な施設がある)。僕は昔から刺繍一般や彫刻が好きで、アイヌの衣服や木彫品(お盆やナイフの柄・さや等)は昔から好きだ(Terai, S. Web Pageの左端にはアイヌ模様が表示されている※)。また、小学生の時は「郷土学習」の一環としてアイヌについても多少(本当に多少)学んだ。北海道のローカルニュースでは、熊送り等のアイヌの伝統行事が行われたことが報道されていることもある。しかし、それは僕にとって生きた文化としてのアイヌ文化ではなかったのだ。陳列ケースの中に収められた文化だったのだ。アイヌ語で話す人を見たときに、生きた文化としてのアイヌ文化を初めて感じたのである。

 もちろん現在アイヌ語だけを用いて生活している人は皆無である。アイヌ語を自在に操ることのできる人も非常に限られている。沙流川でダム建設の担当者に話し掛けていたのは、数少ないアイヌ語話者の1人であった萱野さんだった。数年後彼は国会議員になり質問に立つ機会を得た。国会議事堂にアイヌ語が響き渡ったのである。他の議員達の困惑顔が目に浮かぶようだ。


 『アイヌ語が国会に響く』(榎森・尾本・萱野・大塚・加藤 草風館 1997)


※ 僕が使っているのはアイヌ模様風の波模様だが、アイヌ模様の特徴である渦巻き模様や波模様はアイヌ模様のみの特徴ではなく、オホーツク海に面したカムチャッカ半島や大陸の他の民族の模様の特徴でもある。