Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

話し言葉と書き言葉の長所と短所について

 意外と気づかれていない話し言葉の長所の1つに、「一文が短い」ということがある思う。話し言葉は一息で言い切れる以上の長さになりようがない。何故これが長所かと言えば、短い文章を意識的に接続詞で結びつけていくことにより、論理的な文章をつくり易いからである。反対に話し言葉の短所は、その時の議論の前提となっている事柄が明示されない点である。その場にいれば前提は自明なのだから、それは触れられないだろう。しかし、講義や講演あるいは対談などが、その場で聞いていたときには面白かったのに、後で記録された文章を読むとつまらないのはこのせいだと思う。

 一方、書き言葉の長所は、前提を明らかにした上でじっくりと論を進めることができる点にある。読者の立場に立てば、何度でも読み返すことができるという点もしかり。反対に書き言葉の短所は、一文が長文化しやすいことだ。何故これが短所かと言えば、長い一文は、論理的な文章になりにくいからだ。ここでは、論理性を前の文章内容と後の文章内容の関係が首尾一貫していることと考える。文章間の関係を示すのは接続詞だが、一文が長くなれば当然、述べる事柄の量に対して接続詞の数が減ってしまい、文章間の関係がわかりづらくなってしまう。書き言葉を使えば、自然と論理的な文章になるというわけではない。

 というわけで、学会発表など話し言葉を使うときには、議論の前提を明らかにして話すことが重要だし、論文執筆など書き言葉を使うときには、論理的な文章を書くように心がけることが重要だ。


※普通、書き言葉の方が話し言葉よりも論理的であると考えられていると思うし、僕自身そう思っていた。しかし、次の文章を読んでそれが誤りであることに気づいた。何とこれで一文なのだ。これは大学の先生が書いた文章だが、悪い書き言葉の典型だと思う。(この文章がどういう意味で「悪い」のか? 著者が何を言いたいのかわかっている読者にしか著者が何を言いたいのかわからない文章だという意味で、この文章は悪い。)

 「自分の意志を他人の行動に対して押しつける可能性」としての「力」一般から、独占的地位による支配と権威による支配とを引き出し、後者の支配形態にあっては被服従者の側での服従意欲こそが決定的に重要であることを確認したうえで、そうした服従意欲を支えている「正統性」の根拠の違いに着目することによって設定される「合法的支配」「伝統的支配」「カリスマ的支配」という正統的支配の3類型に関して、豊富な歴史的事例にもとづきながら展開される彼の詳細な議論、また合法的支配ときわめて適合的な関係にある近代官僚制の支配ないしは組織原理についての彼の緻密な議論など、今日においてもなお十分な有効性をもちえており、それらの議論を支えている「支配の3類型」「カリスマ」「官僚制」といった諸々の概念装置は、もはや社会学を越えた共有財産にまでなっているのである。(那須(編) 『クロニクル社会学有斐閣 1997年 より引用)