Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

相互作用の学問としての社会心理学

 心理学というのは、そもそも人の脳の働きについての自然科学なので、大量の個人を対象として実験を行い、その結果を統計的に分析することによって理論を構築していく。心理学という学問の主な対象は、「個人」の心理反応(行動を含む)・心理プロセスである。

 これが社会心理学になると少し趣がかわってくる(と思っていない人の方が多いが)。社会心理学は、個人の心理反応・心理プロセスを対象とするだけでなく、個人と個人の相互作用そのものも対象とするからだ。キツネの研究をするなら1匹1匹の個体を単位として観察すればいい。キツネは単独で生活する動物だからだ。しかしイヌの研究をするなら個体単位で観察してもダメである。何故ならイヌは群れをつくる動物だからだ。群れをなしたイヌ(の個体)を観察しなければイヌについては学べない(もちろんこれは乱暴なたとえ話。動物学者は納得しないだろう)。人間は群れをなして生きる動物だから、知覚のような1個体の中で完結する(と思われる)心理現象を除いて、個人を単位として単独に観察したって人間についてはわからないのである。

 しかし、群れの中の個人を観察するとか、相互作用そのものを対象とするというのは、実際のところ難しい。話が1個体で完結しないからだ。そこでゲーム理論的な枠組みを用いてみようということになる。ゲーム理論は、応用数学の1分野で、天才フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンが意気投合して書いた1冊の本によって始まった。ここでいう「ゲーム」とは、複数のプレイヤーの行動選択の組み合わせに応じて各人の得る利益が決まるような状況を言う。つまり、誰も一方的に自分の(あるいは他者の)利益を決定することはできず、全員の行動の組み合わせで各人の利益が決まる。そもそもゲーム理論は経済行為を論じるためのものだが、この枠組みはそれ以外の状況にも応用できる。

 例えば、信号無視をして交差点を渡ってしまうか、それとも青になるまで待つか、というのも「ゲーム」的状況である。赤信号を無視して交差点を渡るのがいつも危険だというわけではない。自分1人で渡るのは危険だが、皆で渡ってしまえば自動車も止まらざるを得ないから少しも危険ではない。各人の決定(赤信号を無視して道を渡るか、青にかわるのを待つか)の組み合わせによって、各人の得る利益が決まるのである。この例では、他の人が信号を守っているときには1人で渡るのは危険であり待っていた方がよいが、他の人達が信号無視をして道を渡っており自動車が仕方なく止まっているのであれば車にひかれる心配をせずに渡ることができる(もちろん、これは事実上渡ることができるという意味であって、道路交通法違反であることにはかわりない)。結局、誰も信号無視をしないか、皆で無視して道を渡るかのどちらかになる。1人で渡るのは危険だし、1人で待つのもバカバカしい気分になるからだ。(ここでは、交差点を渡りたい歩行者同士で行われているゲームについて述べている。歩行者とドライバーをプレイヤーとして考えればまた違ったゲームとして記述することができる。)

 人間というものは、皆が交通ルールを守っているときには自分も守るが、皆が守らなければ自分も守らないものだ、というのは、個人の行動傾向についての記述である。しかし、そういう個人の相互作用の結果として、誰も信号無視をしないか皆で信号無視をするかの2つに1つになる、というのは、社会現象についての記述である。社会現象についての記述は、個人の行動傾向についての記述からは直接導き出すことはできない。社会現象は、個人間の相互作用の結果として生まれてくるからだ。他者の行動が自分の行動選択における前提をなすのと同様に、自分の行動は他者の行動選択における前提をなす。つまり、人はお互いにお互いの行動を引き出しあっている。他に誰も信号無視をしていないのに自分1人だけでも道を渡る信号無視の常習犯10人を集めれば、彼らはそれぞれ他の9人の行動とは無関係に信号を無視するから、結局10人全員が信号無視をすることになる。しかしそれと、普段は決して信号無視をしないような10人のうちの1人が、たまたまもの凄く急いでいて車の流れの隙をついて交差点を走って渡り始めたところ、異変を察知したドライバーが車を止め、それに乗じて更に数人が渡り始めたところ、ついには全員が渡り始めた、というのとは、根本的に異なるのである。夜中かなり交通量の少ない交差点で偶然居合わせた歩行者が、誰か渡り始めないものかとお互いの出方を伺いあうような雰囲気になることがあるのは、信号無視するかどうかの決定は他者が信号無視をするかどうかに依存しているからである。

 人間が行う相互作用そのものを対象とする学問というのは案外少ない。経済学は数少ない例の1つだと言える。古典的な意味での景気の波というものは、上記の信号無視ゲームと同じような枠組みで理解することができる。好況時には皆が好況時に適切な行動をとる。しかしその行動そのものが、その行動を適切としていた条件をかえてしまうため景気はいつかどこかで頂点を迎える。景気の後退期には、皆それに適した行動をとる。それがそれ自身を適切としていた条件をかえてしまうから、再び景気は回復する。常に有利な経済的行為というものはなく、何が適切な行為かは他者の行為に依存して決まる。個々人の行動の相互作用が社会現象としての景気の波をつくりだす。こういう分析を行う学問としての経済学は、景気の波という社会現象を、複数の経済主体の間の相互作用という観点から説明していると言える。社会心理学も、誰かが意図的に生み出そうとしたわけではないのに生じた社会現象を、個人間の相互作用という観点から説明する、という使命をもっているし、それが個人を対象とする心理学にはない社会心理学独自の面白さなのだ(と思っていない人の方が多いが)。