Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

社会心理学実験とTCP/IP通信

 僕が比較的真剣にプログラミングに取り組んでいるのは、社会心理学実験用のコンピュータ・プログラムを書くことがあるからだ。個人の心理傾向・心理プロセスを対象とする心理学という学問は、自然科学的方法論に対するコダワリが強く、大量の個人に対して心理学実験を行い、実験結果に対して統計的な分析を行い、理論を構築する、というアプローチをとっている。心理学は日本の大学では文学部に属することが多いが、人文科学の中ではおそらく最もコンピュータに依存している学問だろう。統計的分析にコンピュータが用いられるのは当然として、実験実施にもコンピュータが用いられることがよくある。刺激提示や実験参加者の反応の測定においてだ。心理学実験用のソフトウエアというものが市販されているくらいだ(残念ながら僕は使ったことがないが)。

 社会心理学実験には、個人を対象とした心理学実験にはない要素がある。個人間の相互作用だ。ここで言う相互作用とは、Aさんの行動がBさんの行動を変化させ、それがCさんの行動の変化を引き起こし、巡り巡って最初のAさん自身の行動を変化させる、というようなことだ。相互作用の要素を含まない社会心理学研究は、基本的には個人を対象とした心理学とかわらない(「個人間の相互作用に対する個人の心理傾向」を扱う個人心理学という意味で。これと「個人間の相互作用」そのものを扱う社会心理学では、学問として扱っている対象が異なる)。

 そのため、コンピュータを用いた社会心理学実験では、個人A、B、Cがそれぞれ独立に実験課題に取り組む形ではなくて、それぞれのとった行動をお互いにフィードバックしてやり3人で歩調をあわせながら進めていく形をとる場合がある。僕が、インターネットの仕組みやネットワークプログラミングに興味をもつようになったきっかけは、この実験進行の同期をとるのと各人の行動の集計・フィードバックに、複数のコンピュータによるTCP/IP通信を用いたからだ。この目的のためには他の方法をとることもできるが、僕は初めから(2000年頃から)、異なる大学の心理学実験室にいる複数の実験参加者がリアルタイムで相互作用を行うような実験のプログラムを書く必要があった。同一LAN内のサーバーとクライアントが1対1で簡単な文字列をやりとりするところから始めた。そもそもTCP/IPという言葉も、TCPUDPの違いも、ポート番号も、プロトコルというものも、イントラネットについても、ルーターの役割についても、プロキシサーバーのことも、SSLのことも、何も知らなかった。随分苦労した。しかも1つの壁を乗り越えた後に現れる壁は前の壁より高い傾向があるように思う(これは単に、乗り越えた壁よりも低い壁は壁と見なされない、というだけのことかもしれないが)。おかげで社会心理学のことよりもインターネットの仕組みについての方が詳しくなってしまったほどだ。

 大したことをしたいわけじゃない。単に同期をとるのと(これは人間のレベルで言う「同期」。試験会場で皆がいっせいに解答を始めるのと同じ精度での「同期」。5〜10秒の遅れがあったって特定の場合を除いてほとんど問題ない。)また、今のところ動画や音声などのデータは扱っていないから通信する情報量も少ない。実際のところ1時間の実験で(1人の実験参加者あたり)せいぜい数百〜数千文字のテキストを送りあっているに過ぎない。要するにインスタントメッセージみたいなものを送りあうことができればそれでいいのである(実際、ファイアーウォール越えの問題で悩まされた時には、MicrosoftのMessenger APIというのを使えないかチャレンジしたことがある。英語ドキュメントしか見つけられずに挫折したが)。

 だけれども、昨今のセキュリティ対策はそういう素朴なTCP/IP通信をなかなか許してくれないのだ。インターネットを利用した技術やソフトウエアはどんどん増えていてそれを利用するユーザーも増えているが、そういうプログラムを自分で作ろうとすると大変。素人が簡単に手を出せる世界ではなくなってしまった。たぶん今、自分の好きなようにTCP/IP通信を行えるだけの技術力があれば、それで事業が起こせる(んじゃないかと思う)。Skypeなんてその一例だと思う。こないだ取り組んでいたプログラムは、日本と台湾と中国本土の3大学の実験室のコンピュータによるTCP/IP通信を含んでいたのだけど、異なるLANに属するコンピュータ同士の通信でさえ僕にとっては大変なのに、中国という国家としての障壁が僕の前に立ちはだかっていた。

 万里の長城を英語でGreat Wall of Chinaと言う。中国のインターネットには、Great Fire Wall of Chinaと呼ばれるものが存在するとのこと。中国では(日本もそうだと思うが)国家政策としてインターネットのためのインフラ整備が行われた。同時に、検閲システムも整備され、数千人の公務員がインターネット通信を検閲し、政府が認めない通信を遮断しているそうである。僕の関わっていた実験によるTCP/IP通信が政府によって遮断されているとはさすがに思わないが、中国南部を代表する(らしい)とある有名大学の心理学実験室のコンピュータとの大学LANを経由したTCP/IP通信を安定して行うことができずずいぶん苦労した。10秒遅れたっていいから、少々の文字列を送受信させて欲しいだけなのに。