Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

セックス

 何故かふと思いついた話。

 初めて彼女ができて、セックスというものをおぼえたての頃、ある友人が言った。「男にとってセックスなんて、結局女性器を使ったマスターベーションに過ぎない。」そのとき、僕は彼に同意した。そばにいた彼女が怒ったのでその場は取り繕ったが、取り繕ったのは取り繕わなければ彼女がセックスしないと言い出すことが明白だったからで(そして、僕はセックスしたかったからで)、本心ではやはり同意していた。「結局、男は射精さえできればそれで満足。ペニスに物理的刺激を与える『もの』が、自分の手だろうが女性器だろうが、それは本質的にはかわらない」というような考え。それは僕自身の感じていたことそのものだった。

 それから15年ほど経った今思うのは、セックスは女性器を用いたマスターベーションではないということだ。少なくとも今の自分はそう思う。いわゆる女性経験ということに関して、僕は質的にも量的にも大した経験はないが、いつの間にか考えがかわっていた。では今、どう思っているかというと、「セックスの本質はコミュニケーションである」ということだ。コミュニケーションというのは、他者との交わりのことである。他者との交わり、正面から他者と向き合ったコミュニケーションの端的な形(の1つ)としてセックスというものがある(ように感じている)。(売買春に関しては、何かを考えるだけの知識も経験もない。)

 僕はもうずーっと他者と積極的に関わろうという気力を欠いているので、何年もセックスしていないし、そのことに全く何の不満もない。ススキノに行きたいとも、彼女が欲しいとも思わない。むしろ僕はセックスすること(セックスするような関係になること)に対してかなりの恐怖を感じる。たぶんそれは、他者と向き合うことになってしまうことに対する恐怖なのである。僕が何故、他者と向き合うだけの気力を長い間失っているのかについては、自分ではよくわからない(他者から見れば、その理由は明白かもしれない)。すぐに思いつくのは、自分自身に自信をもてないからではないか、ということだが、たぶんハズレだと思う。

 しかし、他人事として自分を見れば、僕はもっと他者と交わるべきだし、他者と交わりたいと思うべきなのではないかと思う。そういう意味で、セックスすべき、セックスしたいと思うべきなのだ。この考えそのものは、他者との関わりの中から生まれてきたものではないけれど。

 僕の中で他者との交わりを求めるような気持ちが少しずつ芽生えてきているように思う。