Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

おおっぴらに協力することの社会的意義

 ふと思ったんだけど、協力行動というのはおおっぴらにやる必要がある。僕は、相互協力の達成・維持には「自ら協力する」という行動だけでは不十分で「他者の協力を引き出す」という行動が不可欠だと考えているんだけど(つまり、相互協力というのは、たまたま協力的な人が集まっている状態ではなく、互いが互いの協力を引き出し合っている状態である、ということ)、陰ながらこっそり協力していても(そのこと自体には協力行動としての価値はあるが)他者の協力を引き出す効果はない。それに対して、皆の前で協力してみせることには、協力行動としての価値があるだけでなく、それによって他者の行動を引き出す効果があると思う。(なぜそのような効果があると考えるかというと、多くの人々はTif-For-Tat的なconditional cooperative strategyをとっている、つまり、皆が協力するのなら自分も協力する、という行動原理を採用している、と僕は考えているから。)こう考えると、協力行動は皆にわかるように行う必要がある。

 相互協力の達成・維持には予言の自己成就としての側面がある。つまり、皆が協力すると皆が思っているから現に皆が協力するという状態が生まれている、という側面がある。この側面を強調する言い方をすると、偶然生じた相互協力は相互協力と呼ぶに値しないということになる。例えば、次のような状況を考えてみる。集団は5個体で構成されており、各個体は50%の確率でランダムに協力か非協力を選択する戦略を採用している。この場合、1/2の5乗つまり1/32の確率で偶然5個体全員が協力することになる。しかし、この協力率100%の「相互協力」は上の意味では「相互協力」の名に値しない。単に「たまたま全員が協力した」に過ぎないからだ。それに対して、全個体が「自分以外の4個体のうち半分以上の個体が(繰り返される意思決定において前回)協力していたならば(今回の意思決定において)自分も協力する」という戦略を採用している場合を考える。1回目の意思決定はランダムに協力か非協力かを決定する。このとき、1回目の意思決定において5個体中3個体が協力していたならば、2回目以降の意思決定において協力率100%の相互協力が維持され続けることになる。上の意味では、これが「相互協力」である。

 このような言い方は極端だと思うが、この言い方には重要なポイントが含まれていると考える。僕は、相互協力の達成・維持の最も巨大な例は「社会の成立・維持」だと思っている。偶然生じた100%協力を「相互協力」と呼んでしまうと、社会の成立・維持とはジャンケンで全員が偶然グー(パーでもチョキでもいいが)を出した状態と本質的に同じ、ということになってしまう。繰り返しになるが、相互協力とは、単に「全員が協力している状態」ではなく、「全員が協力し合っている状態」である。個々人の協力行動が相互に他者の協力行動を引き出すことにより社会が成立しているという観点は重要だと思う。

 そう考えると面白いんだけど、僕は札幌でしか生活したことがないけど(つまり、外国はおろか日本の他の地域でどうなのかすらわからないけれど)、他者に対してあるいはグループに対して実はかなり協力的に行動しているにも関わらず、それを公にしたがらない人は多いと思う。なぜ公にしたがらないのかを考えてみると、おそらく、自らが協力のコストを払っていることをことさらにアピールするような行動がネガティブに評価されるから(あるいは、ネガティブに評価されると思っているから)、ではないかと思う。で、もしも他者にわかるように協力することが本当にネガティブに評価されるのだとしたら、それは、評価者が、皆にわかるように協力するような行動を単に協力的であることを他者にアピールする(協力的であることを皆に示して評価を得ようとする)行動としてしか見なさないからではないかと考える。協力していることを他者に知らせることに他者の協力行動を引き出す効果があることに誰も気づいていない場合、相互協力を達成・維持するという課題は(ただでさえ難しいのに)よりいっそう難しい課題となる。そもそも協力すること自体が難しい。協力していることをアピールしていると思われないような方法で協力し、かつ、他者の協力を引き出す必要があるのだ。面倒くさい!!

 映画やTVドラマで見る限り、欧米社会では日本社会でよりも、人々は、自分の感じたことやアイデア、自らの行動意図、行動原理などについて、他者に明確に示す傾向があるように思う。(僕は欧米社会で生活したことがないので、実際に日常生活において映画やTVドラマ通りなのかどうかはわからないが。)例えば、ある試みに対して協力するにせよしないにせよあらかじめある程度態度をはっきりさせておく傾向は日本社会でよりも強いように思うし、公にされた協力意思が他者の協力を引き出すという効果が得られているように思う。もちろん、実際にそうなのだとして、欧米人が他者の協力を引き出すことを「目的」として意図的に自らの協力意思を公にしているのかどうかはわからない。自分の意見をはっきり述べることに関しては欧米社会の方が日本社会でよりもずっとポジティブに評価されているのではないかと思うが、それが協力意思の表明に他者の協力を引き出す効果があると人々が知っているからであるかどうかはわからない。

 誰が企画に乗ってくるかどうかもわからない新しい企ての成功には、おそらく企画の初期段階における協力意図の表明が非常に重要な意味をもっているだろう。村おこしであれ、新しいロックフェスティバルであれ、飲み会の計画であれ、新しい企画の成功には「積極的に盛り上げる」賛同者の存在が不可欠である。つまり、多くの人がこの企画に賛同し協力する気になっている、という社会的現実を初期段階でつくることに成功するかどうかが企画の成功を大きく左右すると思う。このこと自体は、日本社会にも欧米社会にも当てはまると思う。

 それでは、欧米社会での方が日本社会でよりも、協力意図の表明がネガティブに評価されることが少なく、実際に人々が協力意図の表明を行っているのだとして、それは何の違いに由来するのだろうか。欧米社会では毎日誰かが新しいロックフェスティバルの企画を立て続けているのだろうか。新企画の提案の程度に日本社会と欧米社会で違いがあるのかどうかは僕にはわからない。

 新しい企画に対する賛同表明・協力表明の果たす機能をもう少し細かく考えてみると、2つの機能があるように思う。まず、第1に、企画の賛同者が互いを見出し企画実施のコア集団(発起人集団)を形成するのを助ける機能、第2に、この企画は成功しそうだという社会的現実をつくる機能である。

 新しい企画に対して協力した方が有利か不利かということを考えると、coordination gameとしての側面があることに気づく。つまり、皆が協力して成功するのなら自分も協力した方がよく、誰も協力しないで失敗するのなら最初から全く協力しない方がよい、という側面がある。(あれ? 何でフリーライダー問題が存在しないんだろう? つまり、なぜ「どうせ皆が協力して成功するのなら自分はさぼった方が得である」と僕は書かないんだろう? 賛同側であれ非賛同側であれ「多数派についた方が得なゲーム(つまり、coordination game)」を僕は今考えているみたいね。)ゲームがcoordination gameである場合、皆が協力するという社会的現実をつくることは相互協力の達成に対して決定的な役割を果たしている。これは集団メンバーが固定化されている場合に特に当てはまるように思う。集団からの離脱が不可能な場合、多数派でないことは必然的に少数派であることを意味し不利益を被ることになり、人々はどちらが多数派であるかについての情報に基づいて行動するはずであるから。それに対して、集団からの離脱が可能、あるいは、参加を表明しない限り集団メンバーとしてカウントされないような場合を考えると、ある企画に賛同するのが多数派であるとき、賛同しないのは少数派であることを意味するわけではなく、単に企画の成功によって得られる利益の分配される範囲の外にいることを意味するだけである。つまり、利益を得られないだけであって不利益を被るわけではないから、興味のない企画に関しては興味がないままでいつづけることができる。

 それに対して第1の機能は、集団がまだ形成されていない場合にこそ意味があるように思う。このあたりに日本社会と欧米社会の違いがあるんだろうかと思う(人の違いではなく社会の違い)。

 この話、本当はこのあと面白くなってくるはずなんだけど、「ふと思った」のは残念ながらここまで・・・。