Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

自作マシン無限増殖の原理と自炊の持続性

 コンピュータ系の雑誌を読んでいると、やや自虐的に「自作マシン無限増殖現象」について述べられていることがある。

 ここで言う自作マシンというのはコンピュータの自作のことだが、実際は「自作」といっても、ハンダゴテ片手に部品を基盤に取り付けていくような「工作」には程遠く、各種パーツの規格化されたコネクタ同士の「接続」に近い。

 自宅でメインマシンとして使っているのも、自作マシン(自作2台目)で性能は今となってはエントリーマシン以下だが毎日活躍してくれている。僕にとって自作マシンの良さは、パーツの交換や追加の簡単なところだ。先日も画面表示が乱れるエラーが続いたので、試しにビデオカードを交換してみたところエラーは発生しなくなった。ビデオカードは1500円で買った中古品で、じっくり探せばもっと安いものもある。

 自作マシン無限増殖現象というのは、1度マシン自作に手を染めるとどんどん自作マシン数が増えていってしまう現象を言う。何故こういうことが起こるかというと、パーツ交換によって、使っていない古いパーツ、というものが生み出されるためだ。新しいパーツと交換したので、以前使っていたパーツが使われずに手元にある。もちろんちゃんと動作するものだ。「もったいないな〜。これ何かに利用できないかな〜。ん? 他にも使ってないパーツがあるから、あれとこれを(中古で安く)買ってくれば、もう1台できあがるじゃん!」余りものを活用しているうちに、どんどん自作マシンが増えていってしまうのだ。

 ここ半年くらい少しずつ自炊にチャレンジしている。そのことによって気づいたのだが、自作マシン無限増殖現象と全く同じことが自炊でも起こる。ここでは自炊無限持続現象と呼んでみましょうか。

 自分で料理を作ろうと材料を買ってくる。冷蔵庫の中に何らかの余りものが残る。生姜焼きのタレ半分、キャベツの一部分、モヤシ半分、ジャガイモ2個、ニンニクとショウガと赤唐辛子・・・。スーパーでウロウロしながら考える。「あのキャベツそろそろ全部食べきった方がいいよな・・・。」ちょうど焼きそば・焼きうどんのコーナーにさしかかったところだ。「よし、豚肉(半額)とピーマンを買って、焼きうどんをつくろう! ついでにモヤシも入れちゃおう!」これでキャベツとモヤシはなくなるが、今度はピーマンが余る。そこで、このピーマンを食べるために・・・、また別のものが余る。

 余りものを活かそうとすると、新たな余りものが生まれてしまう。だから自炊にはヤメドキがない。1人シーソーゲームみたいなものである。全てが同時になくなれば、またコンビニ弁当生活に戻るかもしれないのだが。

 ちなみに、社会生活においても、借りや貸しは残しておくべきだという考え方がある。借りや貸しを完全に精算してしまうと、もうその他者との関係を持続させる内在的な力が失われてしまうからだ。貸し借りのアンバランスがあるから、その関係は続いていく。シーソーゲームは終わらないから面白いのだ。