Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

教養としての非常識

 ふと、学校で何を学ぶべきか考えてみた。

 社会に出て役に立つことは社会に出てから身につければいい。たぶんその方が効率がいい。学校で習ったことはそのままでは通用しないだろうから。自分から進んで勉強したくなるようなことをわざわざ学校で教えるのも疑問だ。放っといたって勉強するのなら、放っておけばいい。

 学校では、社会に出ても自然には身につかないし、放っておいたら誰も興味を示さないようなものを教えるべきではないか。今ちゃんと勉強しておけばよかったと思うものは、数学、理科、歴史、地理。

 生きていると必ず行き詰まる。個人的にも、世の中全体としても、行き詰まることがある。そんなときに力を生み出すのは、社会生活の中では身につかない非常識の世界だと思うのだ。これが全てだと思っていた世界は、可能な世界の中のほんの1例に過ぎない。そう感じることができるということが、生きる力を生み出すのではないかと思う。

 高校時代一番好きだったのが倫理。あれはもう完全に非常識の世界。「我思う。故に我あり。」のデカルトは、「神の存在を論理的に証明した」なんて言っているし、「(人間以外の)動物は機械であって魂は宿っていない。動物を叩くと鳴くのは、バネを叩くとビヨンと音がするのと同じである」なんて言っている。ここ数百年のヨーロッパを通して最も聡明な10人のうちの1人であろう彼が本気でそう考えているのだ。どうして彼がそんな風に考えたのかを考えていると、彼が縛られていたであろう常識と僕が縛られている常識が両方見えてくる。

 いろいろあるんですが、昔からの目標はナチュラルに非常識人であること。すぐ常識に縛られて息苦しくなってしまうので。