Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

何故僕は数学の本を読むのか?

 最近、一般向けの数学の本をよく読んでいる。何故か? 面白いからだ。では、何故面白いのか? それは、それまで僕の頭の中にバラバラに存在していたものの関係が見えてくることがあるからだ。

 例えば、等差数列の総和を求める公式、(初項+最後の項)×項数÷2、というものがある。この公式、よく見ると、小学生時代に習った台形の面積の公式、(上底+下底)×高さ÷2、と同じであることがわかる。

 もちろんこれは偶然ではない。等差数列の各項の大きさを棒グラフで表わして並べてみれば全体で台形の形になるから、その総和を求める公式が台形の面積の公式と同じなのは当然なのだ。

 また、こうして考えてみると、数列の総和を求めるために具体的に行っていることが、「部分の面積を集めて全体の面積を求める」という積分そのものであることがよくわかる。等差数列の総和は1次関数の積分等比数列の総和は指数関数の積分、というアイデアで求められることがわかる。自然対数の底eの有難さもわかってくる。

 それがたとえ初歩的な数学の本でも、それを読むことで、僕の中でバラバラに存在していた、台形の面積の公式と、数列の総和の公式と、積分という概念が、1つのアイデアの異なる側面でしかなかったことに気がつく。それが面白い。

 僕は「なかなかピンとこない」にも関わらず「ピンとくるのだけが人生の喜び」というタイプの人間だ。数学は、具体性を捨象してある世界だから、1度ピンときはじめるとどんどんピンとくるようになる。ピンときたい人こそ数学をやるべきなのかもしれない。

 それと数学的世界は現実世界とは異なるとはいえ完全に隔絶した世界ではないから、数学は単なる知的パズルではなくて(他の学問と比べればそういう側面が大きいとは思うが)、具体性にあふれる現実世界を見てピンとくるための強力な色眼鏡として有効なのだと思う。

 例えば、天秤で用いる分銅について考える。10個の分銅を用意するとして、どのような種類の分銅を揃えるのが効率的か。例えば、1gの分銅を10個揃えると、1g〜10gしか計ることができない。これに対して、1g、2g、4g、8g、16g、32g、64g、128g、256g、512gの分銅を1個ずつ揃えておけば、その組合せによって1g〜1023gの重さを計ることができる。言うまでもなく、それぞれの分銅の重さは2進数の各桁に対応している。コンピュータの原理である2進数が効率の良い情報表現方法であることがわかる(10個の0と1(=10bit)で0〜1023の1024通りのパターンを区別することができる)。

 コンピュータが2進数演算マシンであることと分銅の組合せ問題は僕の頭の中では別々の事柄として存在していたのに、数学の本を読んでそのつながりが見えてくる。いろんなジャンルの本を読んで得たバラバラの知識がどんどんまとまっていく。だから面白い。