Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

役に立つとか立たないとか

 何週間か前mixiのニュース記事で、とある研究チームが100万本の鼻神経のつながり方を明らかにした、というようなニュースを読んだ。100万本ではなく1万本だったかもしれないし、明らかにしたのではなく明らかにするメドをつけた、という話だったかもしれないが、とにかく僕はこれは凄いと興奮した。神経学としても大きな成果だろうし、人工の鼻なんてものの開発もグッと進むだろうし、脳神経のつながり方の解明にも貢献するだろうと思ったからだ。基礎研究としても応用研究としても、これは重要な1歩だろうと思ったわけだ。

 その記事の下に「このニュースに関する日記を書いた人」というリンクがあり、ある人の書いたmixi日記を読んで驚いた。僕がこれまで全く考えたこともなかったようなことが書かれていたからだ。

 彼の書いていたことの第1点は、もっと役に立つ研究に研究費を投入すべきではないか、ということ。この意見そのものには驚かなかったが、彼が上述の鼻神経の研究を純粋な知的好奇心の追求そのものであって全く役に立たないものと見なしていた点にはやや驚いた。

 本当に驚いたのは、彼の書いていた第2点。どうせ鼻に関する研究を行うのならもっと役に立つ研究にお金をかけるべきだとして彼が挙げた研究というのが、花や果物、野菜の匂いをかいで季節感や自然の素晴らしさを感じる感性を育てる教育、というものだったことだ。僕自身、植物の匂いや色の変化、風や川の音、星の輝きから何かを感じとる感性というものは非常に重要だと思っている。非常に重要というか、少なくとも僕にとっては「最も重要」だとすら思っている。ただ、そういうことは、それこそ世の中から「役に立たない」ものの代表と思われているだろうと僕は思っていたので、僕は本当に驚いた。目からウロコとはこのことか、というほど驚いた。

 僕は文学部系の人間なので、役に立たない研究にかけるお金はない、というような批判に敏感である。そもそも文学部の存在そのものが、そういう批判の対象になる。世の中に余裕のあるときは、いわゆる文化や教養が無用だと言う人は少ない。ところが、世の中全体に余裕のないとき(例えば、大不況だったり戦争中だったり)には、こんなときにまで源氏物語研究なんてやらなくてもいいだろう、少し控えるべきではないか、と考える人は多いだろう。このテの批判に対して文学部系の人間は『人はパンのみにて生くるにあらず』を持ち出して反論する。物質的・経済的な豊かさよりも、心の豊かさの方が大切ではないか、というわけだ。僕自身はこの反論にあまり説得力を感じないし、文学部不要論みたいな意見をねじ伏せるだけの力があるとはとても思えない。で、悶々とするわけだ。

 ところが、彼の意見では、文学部系の研究こそ「役に立つ」と言っているわけで(「役に立つ」というのがどういう意味なのかよくわからないが)、そういう逆転の発想(僕にとっては「開き直り」)を思いつきそうになったこともなかったので腰が抜けたわけだ。

 やはり自分と似たような意見の人とばかり話をしていても仕方がない。本当にこんなこと考えたこともなかったのだ。