Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

書道は世界中に存在するのだろうか?

 ふと思ったのだが、表意文字を使わない世界にも書道ってあるのだろうか?

 こんな風に思ったのは、ある書道家が言っていたことを思い出したからだ。彼は、オリンピックのフィギュアスケートを見て、スケートは書道と同じだと言っていたそうだ。たぶん、平面に軌跡を残す芸術という側面において書道にもフィギュアスケートにも共通するものがある、というようなことなのだと思う。僕はそんなことを考えたこともなかったので、ふ〜ん面白い見方だなとその意見は強く印象に残っていた。

 そのことをふと思い出して、漢字の場合だと一文字一文字に意味があり、その意味を筆の運びで表現するということが可能だが、アルファベットやハングルのような表音文字を組み合わせて単語を作る言語の世界では、そういう表現が可能なんだろうか?と思ったわけだ。

 Loveという単語に筆者がこめる想いを「書き方」で表わすようなことができるのだろうか? できるのだとしたらどういうかたちで表現するのだろうか。FIREという単語にゆらめく炎のような形態のフォントを使う、なんてのはよく見るが・・・。

 つまり・・・、表音文字文化でも、一文字一文字に精神性をもたせるような表現をするのかなぁ、と。ふと思いついた素朴な疑問。

 最近フラダンスブームだそうでテレビでもよくやっている。フラダンスの身振りには全部意味があるそうだ。ニュージーランドラグビーオールブラックスの選手が見せる試合前のダンス(?)のジェスチャーの1つ1つにも、マオリのダンス(?)由来の意味がある、とか。そんなことも頭の片隅にあって、意味を表現するってどういうことなんだろ?と思ったのだろう。