Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

錯視と記憶の変容

 錯視という現象がある。直線が曲線に見えたり、同じ大きさの円が違う大きさに見えたり。最も有名なのはたぶんミュラー・リヤーの錯視と呼ばれるもので、2本の直線は本当は同じ長さなのだが、どう頑張っても長さが異なって見える。

 普通は、人間の視覚っていうものはだまされやすいものだな、と感じる。これは、視覚のシステムはカメラみたいなもので、あるがままに見えて当然と普通は考えるからだ。(カメラに凝ったことのある人なら、カメラが人間の視覚とは随分異なることを知っているだろうと思うが。)

 ところがたぶんこれは逆で、本来あるがままに見えて当然のものが騙されて錯視が起こるわけではない。錯視を起こすようなメカニズムによって、主観的な「見え」がつくられているのである。

 同じことが記憶にも言えるのだろうと思う。目撃証言の研究によって、人の記憶はあまりあてにならないことが明らかになっている。目撃証言はあまり正確ではないし、後から得た情報によって記憶は簡単に変容してしまう。

 普通は、人の記憶ってものは歪みやすいものだな、と感じる。これは、記憶はビデオ撮影みたいなもので、体験したままを記憶して当然と普通は考えるからだ。

 ところがたぶんこれは逆で、本来体験したままに記憶して当然のものが何らかの事情で歪んでしまうわけではない。記憶は、何かを体験しているそのときからつくられていくものである。そして、体験後も常につくりなおされ続ける。エラーによって正しい記憶が壊れてしまうのではなく、人間の記憶というものはつくりだされるものなのだ。