Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

本質論議

 僕はよく「本質」という言葉を使う。「掛け算の本質が見えてきた」とか何とか。「何だかよくわからないなぁ」が「あぁなるほどな」に変わってきたとき、「本質がつかめてきた」というような表現を使う。

 で、最近、本質というものの本質が見えてきたように思うのだけど、ある事柄の中にその本質というものが潜んでいるわけじゃないんだろうなぁということがだんだんわかってきた。例えば、いろいろな三角形がある中で、全ての三角形の共通点が三角形の本質だと考えて、三角形の共通点を探すことによって三角形の本質を探す(三角形の本質を明らかにしようとする)という方針でやっていっても、三角形の本質だと直観的に感じていたものは発見できないのではないかということだ。

 全ての三角形の共通点はたぶん、3つの角をもっているとか、3つの直線によって構成されているとか、そういうことだと思うんだけど、そしてそれはある意味まさに三角形の本質だと思うけれども、僕にとって重要なのは、ある三角形が三角形の本質を備えているから(三角形の定義を満たすから)それは三角形だということではなくて、三角形は四角形と区別がつくから三角形なのではないかということだ。あるカテゴリーそのものの認識において重要なのは、そのカテゴリーの定義ではなくて、他のカテゴリーと区別がつくということなのではないかというような気分。最近そんな気分が高まっているのだけど、自分が何に気づいてきたのか自分ではまだよくわからない。

 例えば、ある表情を見て、自分はそれを笑顔だと見なす。いろんな笑顔があるが、自分はそれらを笑顔だと見なす。そこで、笑顔の共通点を探して、それが笑顔の本質である、と。笑顔の本質を備えた表情が(笑顔の定義を満たす表情が)笑顔である、と。そういう風に考えて、笑顔の本質を探していっても(笑顔の共通点は見つかるかもしれないけれど)しょうがないんじゃないかなぁと、そんな気分が高まっている。笑顔、怒り顔、恐怖顔、悲しみ顔、驚き顔なんかの本質があって、その本質を認識するから表情認識ができるというわけではなくて、あるのは区別なんじゃないか、と。

 当然、本質の認識ができてなきゃ区別なんてできないだろうという反論はあるだろうけど(三角形と四角形の定義を知らないで、三角形と四角形を区別できるわけがない、という話)、必ずしもそうではないと思う(三角形や四角形の定義を知らなくても、三角形と四角形を区別できるんじゃないか、という話。例えば、チンパンジーに)。あるのは本質ではなくて、そもそも関係性なのではないかと思うのだ。そもそも認識というものは、そこにある本質を見出すことではなくて、あるものとあるものを同じものと見なすか違うものと見なすかのことではないかと思うのだ。

 我ながら何言っているんだかわからんなー。だけれども、知覚ってのは、ある刺激を正確にとらえることではなくて、他の刺激との比較をして、そこに意味のある差を見出すことなんじゃないかとか、ポジティブな感情に対応する表情はネガティブな感情に対応する表情と「正反対」であるというところに意味があるんじゃないかとか、知識の増加というものは、辞書に1項目ずつ追加していくようなものではなくて、共通の項目をもつ知識どうしがネットワーク的にくっついていくことによって形成されていくんじゃないかとか、そういうようなことを考えていたら、大事なのは、「それが何か」ではなくて、「それは何じゃないか」ではないかと思うようになってきたということだ。そして、「それが何じゃないか」を示す情報は、「それ」そのものの中にはない、ということなんだと思う。

 61°と61°と61°と177°の角をもつ四角形があるとする。これは定義により四角形だけど、僕にとっては三角形なんですよ(「僕にとっては」という意味がわからんなー)。だって、パッと見て三角形じゃん(ますます意味がわからんなー)。この四角形を三角形扱いして何が悪いの? って言うか、これを四角形扱いしていたら、苦労すると思うんだよね、生きていく上で(だから、たぶんチンパンジーは三角形扱いするのではないかと思う。古典的な人工知能はこれを四角形扱いするからコンピュータは人間社会の中では生きていけない。人間は「これは四角形だ」って意地張るタイプと「もう三角形でいいじゃん」というタイプに分かれるのだと思う)。何か大事なことに気づいたような気がするんだけどなー。