Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

しかし『韓国語耳』はあるような気がする。

 「『英語耳』なんてものが本当にあるんだろうか?」なんて書いたばかりなのに申し訳ないが、韓国語に関して言うと、ここ2年間で2年前には聴き分けられなかった母音や子音の区別が少しずつつくようになってきた、と思っている。

 母音に関しては、「어(口を大きく開けた「オ」)」と「오(口を尖らせた「オ」)」の違い(どちらも日本語の「お」とは微妙に異なる)が何となくわかるようになってきた。「우(口を尖らせた「ウ」)」と「으(口を横に引いた「ウ」)」の違いもわかるようになった。わかるようになってしまえば、全然違う音なのだ。子音に関しては、激音・濃音の特徴を以前よりも敏感に感じ取れるようになってきていると思う。

 ただこういうのは、漠然と聴いているうちにだんだんとわかるようになってきたわけではない。僕の場合、韓国語の勉強を初めて最初の1ヶ月間はずっと発音の練習ばかりやっていた。独学で、質問できる人がいなかったため、様々な母音や子音それぞれの特徴について、複数のテキストを参照したり、インターネット上の素人が書いた韓国語教室なんかを読み比べたりして、概念的に学んだ。だから、日本語にはない子音や母音が存在したり、日本語にはない区別が存在していることを知っていただけでなく、それがどんな音であるのかや、それがどんな区別なのかを、(聴き取れはしなかったが)概念的にはかなり早くから理解していた。そして、区別のつかない音を聴きながら、ずっとそこにある「はず」の違いを聴き取ろうとしていたのである。

 濃音に関しては、そういう状態が半年くらいずっと続いていて、ある時期急に、「あっ、濃音ってこういう音のことを言っているのかも!?」と気づくに至った(ちなみに、1つのキッカケになったのは、鶏の鳴き声を「꼬꼬꼬」と表記しているのを見たこと、というウソのようなホントの話…)。

 漫然と聴いているうちにそこに違いが存在することに気づいたのではなく、区別のつかない音を聴きながら、そこにある「はず」の違いをずっと探していたのである。日本語には存在しない音や区別を聴き分けることができるようになるためには、まず、その音や区別について概念的に理解している必要があると思う。

 発声器官の構造上、人類はどんな音でも自在に発し得るというわけではない。当然、生物としての制約がある。よっぽど特殊な母音や子音でない限り、世界のあらゆる言語で用いられている音も、だいたい似たようなものだろう(もちろん、ある種の音がある言語では全く使われていない、ということはあると思う。フランス語のrの音やドイツ語のchの音は日本語にはない…よね?)。言語によって異なっているのは、母音や子音そのものというより、一連の範囲の音の何と何を違った音と見なすかの「区別」だろう。虹を7色と見なすか、6色と見なすかの違いのようなものだと思う。

 黄色から黄緑を経て緑にかわっていくようなグラデーションで、そこにある色を1色と見なすか、2色と見なすか、3色と見なすか、あるいは、もっと多くの「種類」の色が含まれていると見なすかは、「見なし」の問題(どの範囲の色を何色と呼ぶか、の問題)である。同様に、外国語の音を聴き分けるのに必要なのは、何と何が異なる音と「見なされているのかをあらかじめ知っている」ことだろうと思う。

 日本語としての「案内」と「案外」の音を無理やりハングル表記すれば、おそらく「안나이」と「앙가이」になるだろうと思う。「안」と「앙」の音はどちらも平仮名で書けば「あん」だが、韓国語話者は両者を区別する。何故かと言うと、「案内」の「ん」と「案外」の「ん」では発音が異なっているからだ(前者は舌が上顎に付いているが、後者はどこにもついていない)。韓国語ではこの2つの「ん」の音を別の音として扱っているので表記が異なるのに対して、日本語では区別していない(両者を含んだ範囲の音を「ん」の音として概念化している)ので両者の表記は同一である。日本語で生まれ育った人で両者の違いに気づいている人は、言語学日本語教育について学んだことのある人か、この2つの音を区別する言語を習ったことのある人だろう。実際には日本語話者も使い分けている(「ん」を入れ替えて「앙나이」「안가이」と発音するのは非常に難しい)にも関わらず、そのことに自然に気づくことがないのは、そこにそもそも概念的な区別が存在しないからだろう。

 外国語の音を聴き分けられるようになるためには、どの範囲の音が何という音として概念化されているのかを理屈として理解していなければならない。理屈抜きで聴き分けられるようになるのは第一言語だけなのではないかと思う。少なくとも第一言語を身につけてしまってから新たに習得しようという言語に関しては、音を聴き分けるのにも理屈が必要なのだろうと思う(これはもちろん、「本で学んだだけで聴き分けられるようになる」ということを言っているわけではない。概念的な理解が先立たなければ、いくらネイティブスピーカーの発する音声に囲まれていても聴き分けられるようにはならないだろう、ということ)。