Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

多様性の中に区別を立てる、ということ

 日本語の「ん」も発音記号で書くと3種類あって、日本語ネイティブスピーカーは意識せずにちゃんと使い分けている。しかし、日本語ではこれらは同じ音として概念化されており、同じ文字で表記される。中国語や韓国語ではこれらは異なる音として概念化されており、ピンイン(中国式ローマ字)やハングルでは異なる表記をされる。日本語では何故区別せず、中国語や韓国語では何故区別するのか。

 まず、「ん」に3種類ある(「m」「n」「ng」)というのは、人間の発声器官の生物学的構造による必然的な結果なのだろう。日本語話者がそれらを意識はしないにしてもちゃんと発音し分けているのには、生物学的な必然性がある(要するに、発音しやすい音が選ばれている)。例えば、「あんぱん」の 2番目の「ん」は「m」だろうが、これは次に来る「ぱ」を発するためには一度唇を閉じる必要があり、閉じれば必然的に「ん」は「m」の音になってしまう、「まんが」の「ん」は次の「が」を発音するためには口を閉じるわけにはいかず、また舌を口の中のどこにもつけるわけにもいかず、結果として「ん」は「ng」の音になってしまう。これは、日本人でも中国人でも韓国人でも、日本語としての「あんぱん」や「まんが」を発音するときには、そう発音するのがおそらく最も発音しやすい。

 では、「ん」を中国語や韓国語では異なる音として区別するのに、日本語では区別しないのは何故か。中国語や韓国語ではこれらを区別しないと何か不都合が起こるのか。これについては、本当は不都合は何もないのだろうと思う。区別しないと何か不都合が起こるから区別しなければならないというわけではなく、本来、人間の言語で用いられる母音や子音に関して、どんな音とどんな音を同じ音と見なすか、異なる音と見なすかには、どうしてもそうでなければならないという必然的な理由はないのではないかと思う。

 例えば朝鮮語では、強く息を吐き出す「パ」、全く息を吐き出さない「パ」、普通の「パ」を3つの異なる音と見なすが、普通の「パ」と普通の「バ」は同じ音と見なす(ただし、区別はしないけれども、実際は「パ」と「バ」を場合によって言い分けている)。つまり、朝鮮語では、吐く息の強さという次元で子音の区別をするのに対して、いわゆる清音・濁音の次元では子音を区別しない。もちろん日本語では逆で、清濁の区別をして吐く息の強さでの区別はしない。人間の発することのできる母音や子音は生物学的な制約の元でそれなりに多様だと思うが、そこに何らかの区別を立てようとするときに用いることのできる次元は様々あって、どれを用いるかについては比較的自由(もちろんこれは個々の話者が恣意的に選べるという意味ではない)なのだろう。

 それでは、何故、中国語や韓国語では吐く息の強さという次元が用いられ、日本語では清濁という次元が用いられることになってしまったのか、というと、(急に曖昧な言い方になってしまうが)おそらく言語同士の類縁関係(インド・ヨーロッパ語族だとか)や、隣接地域や交流のあった他民族の言語の影響、等の、社会・文化・歴史的な要因の積み重ねによって、長期的にそれぞれの言語体系ができあがってきた、ということなのだろう。