Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

パズル遊びとしての数学

 ある処理をどうやったら実現できるかなと考えるのは楽しい。もっと高速化できないかなとか、メモリの消費量を減らせないかなとか、一生懸命考えていると、自分でも驚くほどアイデアが出てくる。こうやって考えるのは楽しい。パズル遊びみたいなものだ。

 この間、プログラミング入門者向けの「アルゴリズム入門」みたいな本を眺めていて、2つの正の整数の最大公約数を求める計算を楽にする方法について知った。考えてみるとなるほどと思う方法だった。考えたのは古代ギリシアの数学者オイクレイデス=ユークリッド。だけどアイデアそのものは天才数学者しか思いつかないような斬新なものではなくて、ひょっとしたら自分でも思いつくんじゃないかという程度のアイデア。その解説の中に「互いに素である」という言葉が出てきた。今の今まで数学の授業以外で「互いに素である」なんて表現を見たことはなかったし、「それがどうした」と思っていたが、そのユークリッドの方法は「互いに素である」という2数の関係性を非常に上手に使っていた。つまり、パズルを解く鍵が「互いに素である」ことだったのだ。数学の時間に習って「これいったい何のためにあるんだ?」と感じた概念は無数にあるが、要するにパズル解きに役立つのである。パズルに挑戦するのは楽しいでしょう? だから数学は人生を楽しくさせる。

 江川達也のマンガ『東京大学物語』の中に鬼のような数学教師が登場する。彼が高3最後の授業で発するセリフが「数学は最も実用的な学問である」というような言葉なのだ(江川達也は数学科卒業)。何か今意味がわかったような気がする。

 そもそも考えてみれば、数学そのものの本質がパズル解きである。コンパスと定規だけを用いて角を三等分せよとか、傷つけずに王冠が純金製かどうかを調べる方法を考えろとか。パズルを解くためにあれこれ考えるのは誰にとってだって楽しいはずなのだ。テレビからクイズ番組がなくなることはないし、何年か前にはパズルブームもあった。で、数学の本質はパズルなんだから、大人気のはずなのである。ところが、世の中には数学好きの人より数学嫌いの人の方が圧倒的に多いように思う。それは数学の本質がパズル解きに過ぎないということが数学にある程度以上慣れていないと直感的にわからないからだろう。

 で、30過ぎて突然、数学ってパズル解きに過ぎないな、とかある日突然気づいちゃったりするわけである。それで、高校時代ちゃんと数学やっておけばよかったとか思ったりするのである。