Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

eureka

 母と思い出話をしていて「昔からあんたは物覚えの悪い子だった」と言われ、なんだかホッとした。最近、そういう基本的な事実を忘れていた。納得することだけが人生の喜びなのに納得するのに人の何十倍も時間がかかる、というタイプの人間がいて、幸か不幸か自分はそのタイプだった、ということだ。

 (1つ誤解があると思う。上のようなタイプの人間がハングアップしてしまったように見える時、周囲の人間は「堂々巡りしているのに、何故他者にヒントを求めないのだろう」と思うことが多いようだ。そういう思いは、「プライドが高くて質問するのが恥ずかしいのだろう」とか「間違えるのが怖いのだろう」とか、的外れな推測につながっていくように思う。実はこういう時、堂々巡りしているわけではなく、いろいろな可能性を検討しているだけなのだと思う。そういう時に他者のヒントを聞いても、検討するべき項目リストの最後に1つ加えられるだけだから、かえって時間がかかるだけである。納得したい人は納得するために自分なりに問題を限定して考えている。他者のアイデアを取り入れると、検討しなければならない論理的可能性が逆に増えてしまうから、こういう時には他者のヒントには耳を貸さない。ようやく全体像が見えてきたというのに、また振り出しに戻ることになるからだ。ただし、様々な他者に意見を訊くということに全く意味がないと考えているわけではない。いろいろな考えを聞いているうちに、その中の共通点に気づき、それが論理的可能性が無限に増えていくことを制限し理解のキッカケになるということはある。だから乱読には意味があると思う。)

 (自分で書いたプログラムがハングアップしているように見えるのは、大きく分けて2通りのケースがあると思う。1つは無限ループに陥っている場合であり、もう1つはいつかは終わるが膨大な時間がかかる処理に取り掛かっている時である。納得がいかなくてとまってしまうのは、前者ではなく後者なのだと思う。いつかは終わるのだが、それが現実的な時間内では終わらない、ということなのだ。)

 小学校の算数でなかなか結論の下せない問題があった。「10cmと10cm2ではどちらが大きいのだろうか?」という問題だ。小学校の低学年だったように思うがこれは難問だった。もちろん、こんな問題が学校で出題されることはない。そもそも長さと広さは比べられないのだから。納得できないでそこで立ち止まってしまう(ように見える)人の特徴に、そもそも解きようのない問題を自分で自分に出題してしまう、というところがあるのではないかと思う。そして、これは解けない問題(というか間違った問い)なのだと納得するまでに時間がかかるわけだ。

 「長さと広さとを比較することはできないらしい」ということに気づくまでに数ヶ月しかかからなかったというのは、今から考えれば自分にしては随分早いと思う。-1を掛けるとプラスマイナスの符号がかわるのは何故か、なんていまだに納得いってないのだから。納得のキッカケは単位の記号に注目したことだ。100cm = 1mというのは変換できる。ところが、cmをどうこねくりまわしてもcm2には変換できないのだ。変換できない単位が使われているということは、そもそも異なるものの量を計っているということではないか。そもそも異なる量の大小関係を比較することはできないのではないか。仕事と私とどっちが大事なの?みたいな問いなのだ。cmとmの違いと、cmとcm2の違いが、違う、ということにこのとき気づくことができたわけだ。

 このとき随分悩んだおかげで、その後、線には幅がない、と言われたときにはヘッチャラだった。数学で用いられる線は、現実の紙の上に描かれている線とは異なり幅がない。これは、数学上の線は長さという量を図示したものだからである。むしろ線に幅があったら困る。幅があるものには面積がある。これでは長さと広さとが比較可能だということになってしまう。現実の線にはもちろん幅がある。なきゃ目に見えない。だから数学で用いられている線は現実の紙の上ではなくて心の中にひかれている。こっちの方が僕の性分に合う。むしろ現実問題を考える方が僕にはずっと難しい(工学の対象は現実の世界だと思う。だから僕は工学には向いていないと思う。工学的発想には目から鱗が落ちる思いをすることも多いが、その現実的な考え方が性に合わず腹立たしく感じることも多い)。

 納得したいのになかなか納得できない、というのはなかなか辛い。眠いのに眠ることのできない不眠症患者、酒好きの下戸みたいなものである。何かがわかる瞬間だけが人生の喜びなのに、わかるまで人の何十倍も時間がかかるのだ。僕はよく頑固だと言われる。頑固なもんかい! 納得できるならいつだって納得する。納得することだけが生きている喜びなのだから。納得はするかどうかの問題ではなく、できるかどうかの問題である。納得はしたいの、でもできないの。わかって〜。

 逆に幸福なのかもと思うのは、「数直線とは数を振った直線である」というような文章を読んで、それでもう眠れないくらいに面白いと感じられる点である。人生観がかわるほど面白いのだ。そしてこういう面白さを(今のところ)他者と共有できなくても僕は満足だということだ。自分が面白いと思っていることを他者と共有できて初めて喜びを感じる人はつらいだろうなと思う。少なくとも自分の経験では、自分が面白いと思っていることを面白いと思ってくれる他者と遭遇した経験なんてほとんどないからだ(これはまぁ、自分が面白いと思っていることを他者に伝わるように正確に表現できない、という自分自身の問題でもあるのだが)。

 ピンとくるまで時間がかかるのにピンとくるまで行動が変わらない人が生きていくのは容易ではない。端的に言って、仕事のできない人間だからだ。ピンときているかどうかとは関わりなく行動を変えなければならない事態というのは数多いし、そういう人間はそれ以外の人間(ピンとくるのが早い人、ピンとこなくても行動を変えられる人)にとって実際のところお荷物なのだろうと思う。ピンとくるかどうかなんてどうでもいいことだろと思っている人間だってどうせ大したことはできないだろうという点では同じだと思うが、少なくとも彼らは労働力にはなるし、少なくとも自分はお荷物ではないと胸を張るだけの自負をもつことはできるのだろう。ピンとこないと行動が変わらないのにいつまで経ってもピンとこない人間は、仕事が進まないことで本人も困っており、かつ、考え方をかえろと常に周囲から責め立てられることになるから、二重の辛さを感じることになる。しかし、これは本人も諦めるしかないし、周囲の人間にも諦めてもらうしかない。本人にだってどうしようもない問題なのだし、お荷物を抱えるというのが人間社会の本質ではないか。そもそも集団生活を営むというのはお荷物に足を引っ張られるということなのだから、それが嫌な人は1人で生きていけばよいのである。(お荷物に「お荷物を抱えるのが人間社会の本質だ」と開き直られたら多くの人間は腹立たしく思うだろう。優秀な人というのは、ピンとくるまで行動を変えられないがピンとくるのも早い人なのだと思う。そういう優秀な人に訊ねてみて下さい。たぶん彼らも「お荷物を抱えるのが人間社会の本質だ」と言うだろうから。)(開き直りは過激な意見でないとつまらないと思うが、それにしても我ながら過激な開き直りを思いついたものだと思う。)

 納得できないことはしない、というのと、納得できるまで時間がかかる、というのは、実は全く異なる問題なのだが、これもよく混同されているように思う。これについてはまた今度。

 ピンときたいという強い欲求をもっていることは悪くはないと思うのだ。優秀な人間は皆、そういう欲求が強い人間だと思う。しかし、優秀な人間は、ピンときたいだけじゃなくて、実際すぐにピンとくるのだろう。ピンときたいだけじゃダメなんだろう。十分条件と必要条件の違いかな(どっちがどっちだか忘れてしまったが)。