Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

コンピュータのアイデンティティ・クライシスから対人関係について考える。

 ぶっ壊れて動かなくなっていた自作PCマザーボードを他のものと取り替えたら、無事順調に稼動するようになった。こいつの名前はPM3といって、僕は物に情がうつるタイプなのでそれなりに愛情を感じている。ところで、こいつは今でもPM3なんだろうか?

 メモリモジュール、ビデオカード、HDDやDVDドライブといったドライブ類、電源ユニット、PCケース、モニタ、それからマウスやキーボード、これらがかわっても、アイデンティティは保たれているような気がする。だけど、CPUやマザーボードがかわっても同じマシンと考えていいんだろうか? 僕の心臓を取り替えても僕は僕だと思うんだけど、僕の脳みそを取り替えても僕は僕なんだろうか? あるいは僕の記憶が完全に失われたとき、それでも僕は僕なんだろうか?

 以前はこれは哲学上の大問題だと思っていたのだけど(実際、これは哲学上の大問題である)、今は以前とは違う考え方をするようになった。何かが同一であるかどうかは、それそのものの性質によって決まるのではなく、他のものとの関係性によって決まる。マザーボードというPCにとって主要なパーツがかわってしまっても、僕とPM3の関係が大きくかわってしまったわけではないから、こいつはPM3のままなのだ。ただし、OSが2世代新しいものにかわったり、以前のデータが失われていたり、1ヶ月半使っていなかった間に別のPCを使っていたりしたことによって、僕とPM3の関係は微妙にかわってしまった。だから、こいつは以前のPM3そのものではない。

 例えば、僕の心臓を取り替えて、いや髪の毛の色でも洋服でもいいんだけど、何かを取り替えて、僕と誰かとの関係性がかわってしまったのであれば、その人にとって僕はもう以前の僕じゃない。脳みそを取り替えてあるゆる心理傾向や行動傾向がかわってしまったとしても、関係性がかわらなかったのであれば、それは僕だ。もちろん、関係性というのは常に揺らいでいるわけだから、僕が僕のままで全くかわらなかったり、ある日突然僕じゃなくなる、なんてことはあり得ないわけだけど。