Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

年を取ると社会的関心が増えるのだろうか?

 mixiのいわゆるマイミクさんというのが何人かいる。その中で、8月15日に日記なりブログなりを書いた人が9人。仮に、年齢順に上から5人を年長組、若い方4人を年少組とする。

 非常に鮮明な違いが出たと思うのだが、小泉首相靖国神社参拝について書いたのは、年長組5人中3人、年少組4人中0人。駒大苫高の野球の試合について触れたのが、年長組5人中2人、年少組4人中0人。では、年少組4人が何について書いているかというと、当日の体験談や最近考えたこと思ったこと、等。

 このときだけじゃないように思うのだが、年少組の書くことが、どちらかと言うと、自分のその日の体験、その日(私的領域について)思ったこと、等の私的な事柄が多いのに対して、年長組は、ニュースになるような出来事に対する意見の表明や、社会のあり方について思ったこと、等の社会的事柄について書く比率が大きいように思う。また、年長組は、個人的な体験について書くときも、その背後にある社会的な問題を念頭においているように思う。これはこれで不思議である。

 何故不思議か? まず、年を取ったからといって私的領域についての関心が少なくなっていくわけではないと考えるからである。年長者にとっても、毎日の生活が一大関心事であることにはかわりはないと思う。だとすると、年を取って社会的関心が増えてきたと考えるわけだが、これはこれでまた不思議である。例えば、首相の靖国参拝が自分の生活に直接関わってくる度合いが年齢を重ねたからといって増えてくるわけではないからだ。20代だろうが40代だろうが、首相がどこで何をしようと関係ないといえば関係ない。つまり、年長者の方が、直接自分の毎日の生活に関わってくるわけではない問題について言及する比率が大きいように思うのだが、それが僕には不思議である。何故なんだろう? 若い人の方が現在の社会のあり方(のおかしさ)についてより敏感で異議を唱える姿勢を強くもっていたって不思議じゃないのに。

 年を取ってくると、社会的関心が心に占める比率が大きくなってくるのだろうか。それとも、単にそれに言及する比率が大きくなっていくということなんだろうか(例えば、「今日の出来事を書いたってしょうがない」と思うようになってくる、とか)。あるいは、私的な経験を社会的な関心と結びつけて考えるような癖がついてくるということなんだろうか。そのことによって社会的出来事が私的領域に入ってくるようになるのだろうか(つまり、首相の靖国参拝を何らかの意味で自分に直接関わる問題だと見なすようになってくる、とか)。WEB上の日記やブログの捉え方や、そこに何か書くということの意味がかわってくるのだろうか。

 興味は尽きない。(結論なし! 思うだけ!)