Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

韓流映画の韓流映画らしさは徐々に失われていくはず。

 2000年以降に制作された韓流映画を集中的に20本ちょっと観て、こんなの韓国国内でしか通用しないんじゃないの?と思うような映画がほとんどだったのだけど、ここ2〜3年でグッとレベルアップしているのかもしれない、とも思う。例えば、『私の頭の中の消しゴム』(2004年)なんかも、初監督作らしいんだけど、それにしてはクォリティー高いと思う。こないだ観た『黒水仙』も、「韓流映画」としてではなく「普通の映画」として韓流ファン以外の人にも通用すると思う。

 韓流TVドラマ・映画のとってつけたような設定、過度にドラマチックなストーリー展開が何故維持(「支持」ではない)され続けるのかについては、僕はそこにヌケガケ型の社会的ジレンマ構造があると考えているんですね。韓国のTVドラマというのは、週1回ではなく週2回のペースで放送されて(しかもCMなしの70分番組)、視聴率が悪かったり評判が悪いとドンドン話の筋をかえちゃうんだそうです。とすると、短期的に効果の出る一発狙いの飛び道具みたいなものをドンドン使うわけですよ。突然死にましたとか、実は生きてましたとか。で、飛び道具を誰かが使い始めたら、同じ舞台で勝負している競争相手たちは嫌でも同様の飛び道具を使わざるを得なくなってしまう。死にましたとかさーそんなの安易だよなぁーと作り手自身が思っていたとしても、誰かがそれを始めたらその路線で勝負するしかない。結局、韓国TVドラマ全体のクオリティーが落ちるだけという、ホッケーヘルメットみたいなもんだと思うんですね(ノーベル経済学賞受賞者のトーマス・シェリングの議論を参照のこと。誰かシェリングの本翻訳してくれんかなー。僕には英語の本を1冊読み切るだけの英語力がないので)。これは、日本のTVのワイドショーがどれをとっても信じ難いほどクダラないのに何十年間もなくならないばかりかクダラなさが増加している、ってのと同じ現象だと思う。たぶん本当にワイドショーを楽しんでいる人なんて少数派だと思うんだけど、いったんそっちの方向で勝負が始まってしまったら作り手は自主的に勝負から降りることはできなくなってしまう。そういう意味で、ここには社会的ジレンマのゲーム構造がある。

 で、これは社会的ジレンマだから、飛び道具の使用に短期的な効果がある限り、ドラマの作り手たちはこのアリ地獄から逃れられない(社会的ジレンマのことを社会的アリ地獄と呼ぶ研究者もいる)。ところが、ここにグローバリゼーションの波が押し寄せてきた。今では韓国の映画が中国や日本で公開されるようになった。日本の映画や音楽も韓国で流通するようになってきた。日韓中の合作映画も作られるようになってそれぞれ本国でヒットするような事例が現れてきた。中国というのは非常に巨大なマーケットである。韓国の人口4800万人、中国の人口が12〜13億人。韓国国内でタコツボ的な競争に明け暮れているよりも、中国でちょっとヒットさせれば韓国全体の観客動員数を上回る。上述の社会的ジレンマのゲーム構造がどんどん崩れていっていると思うんですね。そうすると、悪い意味でいかにも韓流というようなTVドラマや映画は今後減っていくだろうという予測が成り立つ。飛び道具合戦をしなくて済むわけだから。あるいは反対に、日本や中国のTVドラマ・映画が韓流化していくか。いずれにせよ、日本と韓国と中国のTVドラマ・映画は互いのテイストを吸収して似通っていくんじゃないのかなぁ。