Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

Live!

 ある大学での非常勤講師の仕事がそろそろ始まる。

 授業を受ける側ではなく授業を行う側に立ってみて初めてわかったことはいろいろある。

 例えば、学生がこっそり何かをしているつもりでも(寝ているとか、他の授業の宿題をやっているとか、ノートパソコンでノートをとっている顔をして実はDVDか何かを観ているとか)、教壇の上から見るとはっきり一目でわかること。自分の学生時代を思い出してみると、それなりにバレないように工夫しているのかもしれないが、全くの無駄である。だって、教室を見渡せば一目でわかることだもん。先生は気づかないのではなく、敢えて気づかない振りをしているだけである。

 それから、授業を行う側は授業中結構ビクビクしていること。たいていの先生は面白い(と思ってもらえるような)授業をしたいと思っている。そういうわけで、学生の顔色を常にうかがっている。自分の言っていることが理解されているのか、自分の感じている面白さが伝わっているのか、つまらない授業だと思われていないだろうか・・・。こういうことにビクビクしている。

 明らかに誰も話を聞いていない、というような状況が発生すると、大変苦痛である。自分自身がつまらない人間だと判定されたような気になるのだ。全く反応のない空間に向かって90分しゃべり続けることは実に虚しい。こうなると、面白い授業なんてできるわけがない。今すぐ授業なんてやめてしまってお互い好きなことをする方が、お互いにとって有益な時間の過し方なんじゃないか?なんて思ってしまう。

 しかしまぁ先生は授業を行うことによって給料をもらっているわけだし、学生全員がグーグー寝ていたって真面目に授業を行わなければならない。だいたい、学生が寝ているのは先生の授業がつまらないからなのだから、非があるのは先生の方である。だから授業は続けるけれども、実際のところこれで面白い授業ができるわけがない。反応のない人々に90分話し続けるのは本当に苦痛なのだ(もちろん、このうちのたった1人でもいいから今日の話面白かったなと思わせてやろう、と逆に燃えてくることもあるにはあるのだが)。

 実は授業はバンドのライブ演奏と同じである。学生の反応が良いと(例えば、なるほどな〜という顔をしてうなずいてるやつがいるとか、目が輝いているやつがいるとか、身を乗り出して聞いてくれているやつがいるとか)、気分がどんどん乗ってきて授業にも自然と熱が入る。ポンポン言葉が出てくるし、考えたこともなかったようなたとえ話がひらめいたり、自分の感じている学問的な面白さを自分のもっている全ての技量を総動員して伝えようなんて気になってしまう(ときには自分は本当はそんなに面白いと思っていないような事柄まで面白く説明できることもある)。たぶん、そういうときの授業は実際に面白いのだと思う。そうすると、学生の反応もますます良くなってくるから、授業はさらに盛り上がる。そういう意味で、授業というのはCDやDVDを再生するようなものではなくて、そのとき1回だけのライブなのである。

 面白い授業というのは、先生が一方的に実現するものではなくて、先生と学生が一緒につくりあげていくものなのだ。プロなのだからどんな状況でも常に面白い授業を行えなければいけないとは思うものの、それは本当に難しい。