Cogito Ergo Sum.

我思う故に我あり

Positive Chain Reaction

 最近、英語のリスニングの練習を始めて、すっかり夢中になっている。少しずつでも聞き取れるようになってくると、やはり楽しい。

 急にそんなことを始めたのは、実は韓国語の勉強をしていた間接的な結果である。NHKラジオの韓国語講座の前に放送されている英語放送(しゃべっているのは日本人)を聴くともなしに聴いていて、トレーニングすれば何とか聴き取れるんじゃないか、という気がしてきたのだ。韓国語学習の余波で英語の勉強を始める、というところが僕らしい。

 TOEICテストの模試みたいなのをやってみて、追い立てられれば「英文の流し読み」が多少可能なことに気づいた。TOEICテストのReading Sectionでは75分で100問に解答しなければならず、じっくり問題文を読んでいる時間がないのだ。

 僕は大学院生のときに英語の論文を割と一生懸命読んだ経験があるのだけど、そのときは流し読みではなく、逆に「一字一句たりとも見逃さない」つもりで読んでいた。当然、読むのにもの凄く時間がかかった。これは英語に限らず、僕は一般に「流し読み」というものが苦手だ。ザッと目を通す、ということができないのである。全て読むか全く読まないか、All or Nothing。

 こういうのは実生活上でも問題になることも多いし、試験のような限られた場面でも不利に働いていると思う。例えば、情報処理技術者試験の午後問題には結構長い問題文を読ませる問題が出題される。僕の場合、問題文を読むだけでかなりの時間をとられてしまい、解答する時間に余裕がなくなってしまう。しかし、これは(持って生まれた?)自分の認知上の制約なのだから仕方ない、と諦めていた。

 だけど…、英語でできるんなら、日本語でだってできるはず。できないはずがない。文章が読むのが遅い、端折って読むことができない、というのは、自分の単なる思い込みに過ぎなかったのではないか、という気分になってきた(もちろん、本当に「単なる思い込み」だったとは思わないが)。「文章を読むのが遅い」以前の問題として「文字を読むのが遅い」というのは、僕の場合結構なコンプレックスだったりする。「英語のリスニングが苦手」と同時進行で「文字・文章を読むのが遅い」というコンプレックスが弱まるのであれば万々歳だ。英語の勉強を始めて、日本語についての「僕、大丈夫」感が深まるのであれば、それこそ僕らしい。